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韓国の高校で使われている韓国史の教科書(左・飛翔教育社)を翻訳。


※私は翻訳においてもド素人ですし、歴史もそれほど詳しくないですし(好きですが)、全てにおいてド素人ということをご理解いただいた上で、ご覧になって頂ければと思います。私はブログが生業でもないですし、韓国関連の仕事をしているわけでもありません。これは全て趣味の域なので、生暖かい目で見守って頂ければと思いますm(__)m


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韓国史 - III.日本の植民地支配と民族運動の展開1.①


III.日本の植民地支配と民族運動の展開

III. 日本の植民地支配と民族運動の展開

 1. 日帝の植民地支配政策
 2. 3.1運動と大韓民国臨時政府
 3. 多様な民族運動の展開
 4. 社会・文化の変化と社会運動
 5. 戦時動員体制と民衆の生活
 6. 光復のための努力


韓国の国権を強奪した日帝は、政治、経済、社会、文化などあらゆる面において韓国人を抑圧した。 韓国人は3.1運動、抗日武装闘争などを展開して日帝に抵抗し、1920年以降は大韓民国臨時政府を中心に民族運動を展開した。 一方、日帝強占期には近代文物の流入と近代意識の拡散で社会・文化に変化が現れた。

1910 国権被奪
1912 土地調査令公布
1914 第一次世界大戦勃発
1919 3.1独立運動
大韓民国臨時政府樹立
1920 鳳梧洞戦闘
青山里大捷
間島惨変
1923 国民代表会議の開催
1926 6.10 万歳運動
1927 新幹会創立
1929 元山ゼネスト
光州学生抗日運動
1931 金九、 韓人愛国団 組織
1932 韓人愛国団員 李奉昌、尹奉吉義挙
1935 民族革命党 結成
1937 日中戦争勃発
1938 国家総動員法制定
1939 第二次世界 大戦勃発
1940 韓国光復軍 創設
1041 太平洋戦争 勃発
1942 朝鮮語学会 事件
1943 カイロ会談 開催

III.1.日帝の植民地支配政策①-1

1. 日帝の植民地支配政策

日帝植民統治の象徴、朝鮮総督府
日本は韓国の国権を強奪した後、朝鮮総督府を設置した。 1916年、景福宮の勤政殿の前庭に朝鮮総督府の建物が建てられ、1926年に完成した。 この建物は光復後に行政官庁として使われ、撤去されるまで国立中央博物館として使われていた。 1995年8月15日、金泳三政権は『歴史の立て直し』の一環として、朝鮮総督府庁舎を撤去した。 この時、撤去された建物の資材の一部は独立記念館に展示されている。


<考えを開く活動>
日帝が景福宮の勤政殿前に総督府を建てた理由は何だろうか。


①第一次世界大戦が起こる
第一次世界大戦は人類がかつて経験したことのない大規模な戦争だった。 戦争に参加した国家は可能な限りの人員と物資をすべて動員し、総力戦を展開した。 また、これらの国は発達した科学技術を適用した戦車、戦闘機、機関銃、手榴弾、潜水艦、毒ガスなど新しい武器を戦争に投入し、莫大な人的・物的被害を受けた。


<テーマに投げかける質問>
第一次世界大戦後、世界情勢はどのように変化したか。


第一次世界大戦
19世紀後半、帝国主義国家は植民地確保のための競争を繰り広げ、各国の利害関係によって同盟を結んだ。 ドイツはフランスを孤立させるためにオーストリア・ハンガリー帝国、イタリアと三国同盟(1882)を結び、対外膨張政策を実施した。 これに対抗して、フランスと英国がロシアととも三国協商(1907)を結び、緊張感は高まった。 バルカン半島では、ドイツ、オーストリアの汎ゲルマン主義とロシア、東欧の汎スラブ主義が衝突し、民族対立が深まった。

こうした中、1914年のサラエボ事件を契機にオーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告をしたことで戦争が起き、三国同盟と三国協商側が戦争に加わったことで第一次世界大戦が始まった。 戦争序盤はドイツをはじめとする同盟国の戦勢が有利だったが、フランスの抵抗で西部戦線が膠着状態に陥り、戦争が塹壕戦の様相で長期化した。 東部戦線でドイツと戦争をしたロシアは、国内で革命が起こるとドイツと単独講和条約を締結し、戦線から離脱した。

一方、日本は第一次世界大戦が起こると、日英同盟を口実にドイツに宣戦布告し、協商国側に参戦した。 日本はドイツが占領していた中国の山東半島と南太平洋の諸島を攻撃して獲得し、中国に『21ヶ条要求』を提出して中国での権益を拡大しようとした。

長期戦に突き進んだ戦争は、ドイツの無制限潜水艦作戦で被害を受けた米国が参戦し、協商国側に有利に展開した。 その後、ドイツの同盟国が次々と協商国に降伏し、ドイツで革命が起き、新たに樹立したワイマール共和国政府が協商国側と休戦条約を締結し、第一次世界大戦が終わった(1918)。 第一次世界大戦の結果、勝戦国と敗戦国を問わず、欧州各国の勢力が弱まった一方、米国と日本は経済的利得を得て国力が大きく成長し、国際社会での影響力が大きくなった。


III.1.日帝の植民地支配政策①-2


ロシア革命 
ロシアは第一次世界大戦に協商国の一員として参戦したが、相次ぐ敗戦で国内の状況は厳しくなった。 すると、1917年に労働者と軍人たちが戦争中止、ツァーリの専制政治打倒を要求して帝政を崩し、臨時政府を樹立した(3月革命、ロシア暦2月)。しかし臨時政府が改革を先延ばしにして戦争を続けると、レーニンをはじめ社会主義者たちが臨時政府を倒し、革命政府を樹立した(11月革命、ロシア暦10月)。レーニン率いる革命政府は、ドイツと講和条約を結んで戦争を中止し、土地改革、産業国有化などの社会改革を推進した。 続いて反革命派との内戦に勝利した後、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)を樹立した(1922)。

レーニンは国際共産党組織であるコミンテルンを組織し、帝国主義に反対して労働運動と植民地解放運動を支援すると宣言した。 これは、社会主義が世界に広がる上で大きな影響を与えた。


戦後処理とベルサイユ体制
第一次世界大戦が終わり、戦後処理問題を論議するためにパリ講和会議が開かれた(1919)。 米国大統領ウィルソンが提案した和平原則14か条に沿って会議を進行することとされたが、実際には戦勝国の利益が優先的に考慮された。 会議の結果、締結されたベルサイユ条約によってドイツは海外にあったすべての植民地を失い、軍備縮小とともに莫大な賠償金を負担することになった。第一次世界大戦後に形成された国際秩序をベルサイユ体制という。

一方、戦勝国として参加した日本は、ベルサイユ条約によってドイツが占めていた山東半島の利権を継承した。 日本が東アジアで勢力を拡大すると、米国は1921年ワシントン会議を開催し、アジア・太平洋地域において列強間の利害関係を調節し、日本の影響力を縮小して日本を牽制した。


コミンテルンの民族運動支援約束

レーニンは1917年に「民族自決の原則」を宣言し、抑圧された民族の政治的独立を主張し、1919年にはコミンテルンを組織した後、植民地解放運動を支援すると約束した。 また、プロレタリアと世界のすべての民族、抑圧を受けている大衆が連帯して自発的に努力しなければ、資本主義に対する勝利を収めることはできないと主張した。

レーニンの主張は、世界各国の独立運動家に大きな影響を及ぼした。 当時、帝国主義国家の侵略と支配を受けていたアジア各国の知識人たちは、社会主義を反帝国主義民族運動の新しい理念として積極的に受け入れた。 1920年代初めに社会主義運動が始まったが、韓国ではコミンテルンと密接な関係で展開された。

(写真)
コミンテルン第2回大会(1920)で演説するレーニンと群衆の中の太極旗の様子


<管理人の独り言>
皆さま、温かいお言葉をありがとうございます。
まだもう少し余裕があるので、あといくつかは記事をUPする予定です(予定は未定)


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