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韓国の高校で使われている韓国史の教科書(左・飛翔教育社)を翻訳。


※私は翻訳においてもド素人ですし、歴史もそれほど詳しくないですし(好きですが)、全てにおいてド素人ということをご理解いただいた上で、ご覧になって頂ければと思います。私はブログが生業でもないですし、韓国関連の仕事をしているわけでもありません。これは全て趣味の域なので、生暖かい目で見守って頂ければと思いますm(__)m


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韓国史 - II.3 近代国民国家樹立のための努力①


3.近代国民国家樹立のための努力③-1

③独立協会が設立され、大韓帝国が樹立される

高宗は大韓帝国を宣布し、清の隷属国としての「朝鮮国王」ではなく「皇帝」を表す国璽10顆を新しく作った。 その中の一つである皇帝之寶は持ち手の形を以前の亀の形から皇帝を象徴する龍の形に変えて作った。 大韓帝国の国璽は、朝鮮戦争の時、一部が国外に不法搬出され、2014年に返還された。


<テーマに投げかける質問>
独立協会が設立され、大韓帝国が樹立された背景は何だろうか?


独立協会の設立 
甲申政変以後、米国に亡命していた徐載弼は政府の要請で帰国した。 彼は政府の支援を受けて1896年にハングル版と英語版の独立新聞を創刊し、開化派官僚と独立協会を設立した。 独立協会は独立門の建設を推進し、独立門を建てるのに補助金を出せば、誰でも独立協会の会員になれるようにした。 その後、独立協会は独立門を建て、独立館で教育や産業振興、自主独立などのテーマで討論会を開き、民衆を啓蒙した。 また甲午改革の時、定められた国旗の掲揚を主張し、愛国歌を制定して普及しようとした。


大韓帝国の樹立
ロシア公使館に逃れた高宗は断髪令を撤回し、義兵の解散を勧めた。 続いて親露・親米性向の人物で政府を構成した後、内閣を廃止して議政府を設置するが、国王が最終決定権を持つようにした。 地方行政区域も23部から13道に変えた。

高宗はロシアの助けを受け、日本の脅威から逃れようとしたが、軍事教官の派遣要請にのみ応えた。 ロシアと日本は朝鮮をめぐり二度の秘密協定を締結し、朝鮮を両国の共同勢力圏と規定した。

このような状況で高宗の還宮を求める上訴が続いた。 しかし高宗は親衛隊の警備能力が備わった後の1897年2月、慶運宮(徳寿宮)に戻った。その後、朝鮮も皇帝の称号を用いて国の地位を高めるべきだという世論が起こった。高宗は年号を「光武」に変え、圜丘壇で皇帝に即位した後、国名を「大韓帝国」と宣布した。


独立門
独立協会は清の使者を迎えた迎恩門跡近くに独立門を建てた。また、その隣にある清の使者を迎えた慕華館を修理して独立館と名付けた。

大韓帝国期の議政府
大韓帝国樹立以前の議政府は、領議政・左議政・右議政と、それを補佐する賛成・参賛により構成されていた。 一方、大韓帝国期の議政府は、議政、参政、各副大臣と賛成、参賛により構成されている。 機関の名称は朝鮮と同じだが、今日の国務会議と上院の機能を加えたものと見られる。


3.近代国民国家樹立のための努力③-2

独立協会の国権守護と改革運動
大韓帝国が樹立する頃、ロシアは政府と交渉して財政顧問を派遣し、韓露銀行の設立、絶影島租借など利権侵奪を試みた。 独立協会はこれを国家主権に対する脅威と考え、1898年3月から鍾路で商人、学生など1万人余りが参加した万民共同会を開いた。 万民共同会では、ロシアの干渉と利権要求を糾弾する自主国権運動を展開した。結局、ロシアは財政顧問を撤退させ、絶影島租借要求を撤回した。

1898年半ば以降、独立協会は身体の自由、財産権の保護、言論・出版・集会・結社の自由を要求する運動を展開する一方、政府大臣の不正腐敗などを批判し、皇帝権力を制限しようとした。 皇帝側近である李容翊は白銅貨を乱発した罪に問われ高等裁判所に告発された。 また、政府が甲午改革の時に廃止された連座制などを復活させようとすると、万民共同会を開いて連日反対デモを主導した。


独立協会の中枢院改編
独立協会は甲午改革期に設立された中枢院を西欧の上院議会と同じ機構に改編し、立憲君主政体を樹立しようとした。 独立協会は1898年、鍾路で政府大臣までが出席した官民共同会を開き、ここで提起された国政改革案である獻議六條を皇帝に献上した。 皇帝がこれを受諾する事をもって中枢院制度が改編された。 これによって中枢院は立法権、政府案件審査権、政府政策諮問権などを行使することができた。 

また、国政の重要事項については中枢院が相応しいと決定するまで行政府が単独で執行できないようにした。中枢院議官50人のうち半分は政府が皇帝に推薦して任命し、残りは独立協会から選出するようにし、国民の意思が政治に反映されるようにした。


大韓帝国の独立協会解散 
中枢院制度が導入されると、独立協会の勢力が大きくなることを懸念した保守官僚たちは、独立協会が皇帝を廃位し、共和政を樹立しようとしていると蔑んだ。 高宗は独立協会を解散せよとの命令を下し、独立協会の幹部を逮捕した。 そのため、学生や商人など数千人が光化門と鍾路一帯で万民共同会を開催し、独立協会幹部の釈放を要求した。 これに驚いた高宗は独立協会の幹部らを釈放したが、万民共同会は憲法第六条の実施、独立協会の再設立を要求し続けた。

集会が続くと政府は「皇国協会」を通じて全国の行商人を漢城に呼び寄せ、万民共同会を襲撃した。 熾烈な戦いが起こって負傷者が出た。 高宗は独立協会と皇国協会の代表に会って彼らの要求を聞いた後、独立協会を再び設立し、行商を解散させることを約束した。 続いて中枢院官制を再び改め、皇帝側近が過半数を占めたが、その後開催された中枢院会議では国政を改革する代わりに、日本に亡命中の朴泳孝が推薦された。 これを自身の権力に対する脅威と考え怒った高宗は、軍隊を動員して万民共同会と独立協会を強制的に解散して関係者たちを逮捕した。



<管理人の独り言>
GWに入り、記事更新がいつも以上に不規則になると思います。もしかすると更新できない日もあるかもしれませんが、元気で過ごしてると思います。GW明けには、今までのペースに戻したいと思っていますので、またよろしくお願いします(*ᴗˬᴗ)⁾⁾ペコ



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