表紙



韓国の高校で使われている韓国史の教科書(左・飛翔教育社)を翻訳。


※私は翻訳においてもド素人ですし、歴史もそれほど詳しくないですし(好きですが)、全てにおいてド素人ということをご理解いただいた上で、ご覧になって頂ければと思います。私はブログが生業でもないですし、韓国関連の仕事をしているわけでもありません。これは全て趣味の域なので、生暖かい目で見守って頂ければと思いますm(__)m


※当ブログの内容、テキスト等(コメント欄含む)の無断転載・無断使用を固く禁じます。引用する場合は、引用元として明記してください。YouTubeで当ブログの内容を読み上げるなども止めて下さい。

ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします^^
     にほんブログ村 ニュースブログ ニュース 海外の反応へ








スポンサードリンク


外部サイト人気記事


韓国史 - II.4 日本の侵略拡大と国権守護運動③


4.日本の侵略拡大と国権守護運動③

③愛国啓蒙運動が起こる
資料は1905年、平壌で設立された太極書館が出した新聞広告で、本・学生用品を販売し、本を5ウォン以上購買する場合は割引するという内容を盛り込んでいる。
李承勲を中心とする民族運動家は、新知識を普及させ、民族意識を高めるために太極書館を運営した。


<テーマに投げかける質問>
知識人は国権回復のためにどのような努力をしたのだろうか。


保安会と憲政研究会
日本の内政干渉が深まると、独立協会系の有識者を中心に国権を守護しようとする動きが出てきた。 彼らは社会進化論を受け入れて学校を建て、人材を育て、新聞や雑誌などマスコミを通じて国民を啓蒙した。また産業を起こし経済的な成長を成し遂げようとした。 こうした動きをまとめて愛国啓蒙運動という。

その最初の動きは、1904年に官僚、儒者などが結成した保安会の活動であった。 露日戦争中、日本が韓国政府に荒れ地の開墾権を要求してくると、保安会は鍾路で大衆集会を開き、日本の要求を撤回させる成果を上げた。 しかし、保安会はその後、日本の圧力で強制解散させられた。

一方、一進会が初期には民権運動を展開したが、親日的性向を示すと、これを批判する人々が憲政研究会を組織した(1905)。 憲政研究会は立憲君主制を導入することを目標に活動したが、乙巳勒約反対の立場を明らかにした指導部が逮捕され、活動が中断された。


大韓自強会と地域学会
憲政研究会の会員を中心に1906年、大韓自強会が結成された。 大韓自強会は教育と産業の発達を遂げて立憲君主制を樹立すべきだと主張した。 また、全国に支会を設置し、月報を発行し、大衆向けの演説を開催するなど、大衆的な活動を展開した。 しかし、高宗の強制退位に反対するデモを主導し、統監府の弾圧を受けて強制解散させられた。

その後、大韓自強会の主要人物は天道教幹部と大韓協会を組織した(1907)。 大韓協会は実力を養い、漸進的に国権を回復すべきだと主張し、立憲君主政を志向した。 しかし、日帝の弾圧により活動が大きく弱まった。
その他にも、全国の主要地域では学校設立と大衆啓蒙を目標とした愛国啓蒙運動団体が設立された。 湖南学会、湖西学会、西北学会、畿湖興学会、嶠南学会、關東学会などが新教育普及のために私立学校を設立した。


秘密結社 新民会  
乙巳勒約締結以降、統監府の弾圧が激しくなると、安昌浩(アン・チャンホ)、梁起鐸(ヤン・ギタク)などは秘密結社である新民会を組織した(1907)。 新民会は教育と産業の振興、国民啓蒙などを通じた民族の実力養成を強調し、共和政に基づいた近代国民国家の建設を目指した。 新民会は、これを実現するために平壌に大成学校、定州に五山学校を建て、人材を育てた。 そして書籍を出版して供給するために太極書館を運営し、自社を設立して民族産業を育成しようと努力した。

1909年頃から日帝の弾圧が激しくなり、韓国併合が本格的に展開されると、新民会は実力養成運動だけでは国権を回復することは難しいと判断した。 これにより満州に独立軍基地を建設し、武官学校を設立して独立軍を育成することに力を注いだ。 日帝の韓国強制併合以後、国内の新民会組職は日帝が捏造した105人事件で瓦解された。 しかし、新民会に参加した愛国の志士たちは、その後も国内外で活発に独立運動を展開した。

韓国史 - II.4 日本の侵略拡大と国権守護運動④

4.日本の侵略拡大と国権守護運動④-1

④日本が独島を不法編入し、清と間島協約を結ぶ
1907年、大韓帝国時代に作られた『大韓新地志附地圖』には、豆満江を越えて間島の一部地域が咸鏡北道に含まれる韓国領土と記されている。 これに基づき、当時の大韓帝国が間島を韓国の領土と考えていたことを推測できる。 しかし1909年、日本が清と間島協約を締結し、間島は清の領土となった。


<テーマに投げかける質問>
日本が清と間島協約を締結した目的は何か?


独島の歴史的淵源 
三国時代からわが国の領土と認識されてきた独島は、鬱陵島とともに三国時代以前から于山国と呼ばれた。 『三国史記』には新羅の異斯夫が智證王の時、于山国を服属させたと記録されている。

高麗初期から于山国は使臣を通じて高麗王室に土産物を捧げ、高麗は彼らに官職を与えた。 『高麗史』には、独島が于山で、鬱陵島がウルン(우릉) (島)またはムルン(무릉) (島)と表記されている。

朝鮮、世宗の時に編纂された『世宗實錄地理志』には「ウサン(独島)、ムルン(鬱陵島)2つの島はかけ離れていない、天気が晴れたら、お互いに眺められる」と記録されている。 朝鮮後期の粛宗の時は、日本の漁民が鬱陵島に密かに侵入して生活するなど、領有権問題が発生すると、安龍福は日本に渡り、日本の幕府権力者に鬱陵島と独島は朝鮮の領土であることを主張しながら、日本人が渡ってくるのを阻止してほしいと要請した。 この時、安龍福が持っていった『朝鮮八道地図』を日本の官吏が文書に書き写したが、ここに『タケシマ(竹島:鬱陵島)』と『マツシマ(松島:独島)』が朝鮮の江原道所属として記録された。その後、日本は日本の漁民が鬱陵島に行けないように渡海禁止令を下した(1696)。


日本の独島不法編入
開港以来、日本の漁民の不法漁労活動が増えると、大韓帝国政府は1900年『大韓帝国勅令第41号』を下し、鬱陵島を欝島郡に昇格し、独島を管轄することを決めた。 しかし、日本は1903年、ある日本人が独島は主のいない島として小屋を建てて日本の領土への編入や貸下げした点を利用して1905年に独島を島根県所属と告示した。 1906年、欝島郡郡守・沈興沢は、独島を調査しに来た日本島根県の官民調査団から日本の独島不法編入の事実を知ることになった。 沈興沢はこれを江原道の観察使に報告し、江原道の観察使は中央政府に報告した。 政府はこれに対する対応策を指示したが、乙巳勒約により外交権を失った状態だったため、まともに施行されなかった。


間島をめぐる清との紛争 
古朝鮮、扶余、高句麗、渤海などの領土だった間島は韓民族の主な活動舞台だった。 清は満州族の発祥地である間島を神聖と考え、17世紀後半から間島地域への出入りを禁止した。 朝鮮も清を意識してこの地域に移る者を処罰した。 しかし、山蔘を採取したり、生活必需品を購入するため、両国の民が境界を越えることが頻繁にあり、衝突が頻繁に起きた。 朝鮮と清はこれを阻止するため、1712年、白頭山に白頭山定界碑を建て、両国の境界を定めた。

その後も朝鮮と清の民が境界を越えることは続いた。 特に、19世紀後半、大凶作や三政の紊乱などで間島に移住する朝鮮人が増えた。 すると清政府は、中国人の間島移住と開墾を目的に朝鮮人の間島撤収を要求した。これに対し両国の代表が集まり国境を確定させようとしたが、白頭山定界碑の解釈をめぐって双方の主張が拮抗し、確実な結論を下すことができなかった。


清と日本の間島領有権移譲
大韓帝国政府は1897年と1898年の2回にわたって現地を踏査し、間島が韓国領土であることを確認した。 すでに間島に数十万人の韓人が居住していることを考慮し、大韓帝国政府は李範允を間島管理士に任命し、韓人を保護させ、間島を咸鏡道の行政区域に編入した(1903)。 しかし、乙巳勒約で帝国の外交権を強奪した日本は1909年、清と間島に関する日清協定(間島協約)を締結し、満州の鉄道敷設権、炭鉱の開発権などを得る条件で間島を清の領土と認めた。 これにより、間島の領有権は我が民族の意思とは関係なく清に渡った。 しかし、間島は依然として韓民族の生活の基盤であり、その後の民族独立運動の基盤となった。

4.日本の侵略拡大と国権守護運動④-2

大切な我々の領土 独島

日本は露日戦争の中、独島を自国領土として不法編入した。 しかし、独島は大韓民国が領土主権を行使している明白な韓国の領土である。諸記録を通じ、独島が韓国の領土であることを確認してみよう。


1.我が国の記録で見る独島

<三国時代~朝鮮時代>
(智證王)13年の夏、6月に于山国が降伏し、毎年土産物を供え物として奉納した。....伊湌・異斯夫が何瑟羅州の君主となり ... 于山国の人々が恐れ、すぐに降伏した。

『三国史記』
智証麻立干13年6月、異斯夫が于山国を征伐して服属させた内容が記されている。


<大韓帝国>
大韓帝国勅令第41号(1900)
・第1条 鬱陵島を鬱島に改称して江原道に付属し、島監を郡守に改め、官制中に編入し、群の等級は5等にすること。
・第2条 郡庁の位置は太下洞と定め、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄する。

日本の漁民たちの不法侵入が続くと、大韓帝国政府は勅令第41号を通じて、独島を欝島領として編入し、独島が韓国の領土であることを明確に規定した。

512 新羅の智證王の時、異斯夫が于山国征伐
1693 粛宗時代の安龍福 渡日→その後1696年、日本の漁民が鬱陵島に行けないように禁止令を発令
1877 日本の明治政府が "太政官指令文" を通じて、独島を朝鮮の領土として公式認定
1900 大韓帝国政府が "勅令第41号" を下して、独島を欝島郡(鬱陵島)行政区域に編入
1905 日本が露日戦争中に独島を自国の領土として不法編入


2.日本の記録で見る独島

隠州視聴合紀(1667)
この二つの島(鬱陵島と独島)は、人が住まない地で、この島で、高麗(朝鮮を意味する)見ることが雲州で隠岐島を眺めるのと同じだ。そのため、日本の北西の境界は、この島(隠岐島)を限界とする。

地方官吏が記録した内容で、日本の西北の境界を隠岐島としている。
この本は、日本が独島を記録した記録の中で一番古いとされている。 この記録は、当時の日本人たちが独島を自分の領土だと認識していなかったことを示している。

三國接壤之図(1785)
日本人 林四平が作った地図だ。鬱陵島と独島を朝鮮の領土色である黄色で描き、その横に「朝鮮のもの」と記録している。


日本政府は、1876年、全県に各県の地図を調査し報告するように命令した。 この時、島根県は磯竹島(鬱陵島)と松島(独島)を日本の領土に含めかどうかを決定してほしいという内容と『磯竹島略図』という地図を日本内務省に提出した。

日本の内務省は調査の後、2つの島を朝鮮の領土だと結論付けた。

しかし領土問題は太政官が決定すべき重大事項であるため、これを当時の日本の最高行政機関であった太政官に報告した。 資料を検討した太政官は、「両島は朝鮮の領土であり、日本とは関係のない土地なので、これを官吏たちに知らせるように」という指令文を島根県に送った。 この文書は、日本が韓国の独島領有権を認めた重要な証拠の一つだ。


ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします^^
     にほんブログ村 ニュースブログ ニュース 海外の反応へ


外部サイト人気記事