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東アジア歴史ネットというサイトから慰安婦たちの年表とサイト保存。昨日の続きです。

<管理人の独り言>
韓国政府関連サイトから閲覧できる慰安婦の証言、これで全てになります。有名なイ・ヨンスもありません。※年表に『慰安婦として連行』と書かれている場合にのみ、その背景となる慰安婦の証言を載せています。

※スマホの方は年表が見づらいかもしれません。すみません。


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外部サイト人気記事


ノ・チョンジャ

『過去のことは聞かないことにしましょう、胸が痛いから』
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0009_0010
<魚拓>
https://archive.vn/KWj78
年齢 内容
1920年   忠清南道大徳郡生まれ
(住民登録上の年度は1922年)
1934年 15歳 巻番(日帝強占期の妓生たちの組合)に入り、踊りと歌を学ぶ
1938年頃 19歳頃 日本の憲兵に連行される
満州などで日本軍「慰安婦」の生活
1945年頃 26歳頃 解放後に帰国
行商、露店、巫堂などで生計を立てる
1980年代   クォン某と同居
1992年 73歳 日本軍「慰安婦」登録
1990年代   同居人クォン某死亡
2004年 85歳 忠清南道保寧市の賃貸アパートで生活

巻番

『海の青い波に釣竿を投じて、峠の頂上に座っていると』
私がその頃、巻番に入ったのが15歳で入ったんだ。 友だちが楽しそうに通ってるから。その時はそれが何なのかもわからなくて、キーセンしに行こうってね。 歌を歌って、チャング(太鼓)を叩いて歌えば、それがキーセンだって言うんだ。 巻番の先生が前で名前を呼ぶんだよ。誰々さん、って呼ばれたら前に出て、歌いなさいって言われたら歌って。歌を歌った所が今で言えば劇場だよ。踊って、歌って。 声が良かったんだ。どんな歌でも、上手に歌ったんだよ。だから、アンコール、アンコールってなったら、また出て『海の青い波に釣竿を投じて、峠の頂上に座っていると』って、歌声が良いって、拍手がすごかったよ。声が今よりも良かったし、澄んでいて。そうして、妓生として、今で言えば舞台をあちこち回って、上手だと言われたんだよ。 本当に、その頃は顔もこんなじゃなくて、手もこんなにでこぼこしてなくて、顔も肉付きがあって、だから舞台に出ると(笑顔で)『アンコールだ、アンコール』、『アンコール、アンコール』って言われて。

巻番には寝泊りする所はないんだ。 そんなのは(お酒を注いだりするのは)、あの花柳界だよ。お給料をもらって通う花柳界だ。 私は踊って歌だけ習ったんだよ。そうして、一番上手だって賞ももらって。 賞はチマ・チョゴリの布地。薄紅色の花の刺繍があってきれいなやつで。 巻番は3年で卒業したよ。

家に行って巻番に通っているという話をしたら、何をやってるんだって、なんたることだって、町内が騒いでね。あぁ、昔は差別があったからね、良民と賤民。それで、行動を監視されて、便所に行くだけでも捕まって部屋に戻されたんだ。だから、ある時は頭にきたら、便所に座っても歌ったんだよ。そうしたら、あの女、気でも狂ったのかって言うんだ。そうしたら、私が歌をもっと大きな声で歌うんだよ、便所に座って。 父さんが棒切れを持って追いかけてくるんだ。本当に、ものすごく叩かれて。 私が歌でもらった賞状を持って、そしてお金も持って行って父さんにお願いしたら、『今回一回だけ行って、もう行くな。今回だけだぞ』って言われて、それで巻番に行かなくなったんだ。


屋根のない汽車

引きずり出して、つかんで叩いて、乗せて出発するんだけど。 今も、あの話をすると胸が痛くて、引き裂けそうでつらいんだ。私に刀があったら、ズタズタに切り裂きたいよ。喉が詰まって。 だから、私があの時、17歳だったか、18歳だったかな。農村では畑作なんかもするじゃないか。何人かの小作人と畑の雑草を取っていたら、黄色い服を着たやつらが4人か5人やって来て。あいつらは、正確にまだ結婚してない処女の女の子だけをよくもまぁ見分けるんだ。畑の草取りをしていたら、突然ペラペラって何かしゃべって、あきれるったらないよ。あいつらが来て引きずって行くんだ。私は助けてって叫んで、『盗賊に連れて行かれる』って叫んだら、畑で草取りをしてた人たちが追いかけて来ながら、声を上げながら鎌を持って追いかけて来て。あんなやつらに引きずられたら何もできないよ。どうするんだ、言葉も通じないし。いくら朝鮮の言葉で悪態をついて罵っても、言葉が通じないんだから、言葉がわからないんだから、お互いに。それで、その時に連行されて行ったんだよ、私が。

日本のやつら、だから憲兵隊、ここの刑事と同じようなもんだよ。巡査よりも階級が高いっていうやつらだよ。故郷でそんなふうに畑の草取りをしていて捕まって行ったから、みんな知っているのさ。後ろに座って一緒に畑の草取りをしていたおばさんたちは、あぁ、なにごとだって、どうして連れていくんだって叫ぶだけだったよ。いくら叫んでも、誰かが追いかけてきて助けようとする人がいるもんかい。ただ、叫ぶだけだったよ。あいつらが、乱暴に連れて行ったからね。 連れて行かれて、屋根のない汽車、一両に乗せられて行ったんだ。
わあわあ、ただ泣いて。泣いてもどうしようもないんだ、どうにかできるわけでもないだろう。身動きもできないから。誰が、朝鮮の人が助けてくれるかい、どうするっていうんだい。何人も、そうやって連れて行かれたんだ。ものすごく苦労もして、ものすごく泣きもして。そのことを考えると、胸が痛いというより焼けるようだよ。

その時に何日くらい行っただろうか。屋根のない汽車で、おにぎりを一つずつと、たくわん、たくわんってのが昔はあってね。それを二切れ、それをくれて、水も容器に入れて、車の中でただそうして飲んで食べて。連れて行かれる、死にに行く命だから、怖いものもないだろう。それで、ただ悪口を韓国語で、わからないから韓国語で悪口を言って。お前ら、お前らには子供もいないのか、兄弟もいないのかって叫んで、罵って、悪口を言って、あれこれやったよ。それでもあいつらは言葉がわからないから。私は、ただ奴隷のようにこき使われるために連れて行かれるんだと思ったさ、他のことなんて考えられるわけないだろう。

あれは、どこだったか。あまりに昔のことだから。汽車が止まった所は、日本のやつらの土地だったから、そこで止まったんだ。軍人はそんなに多くはいなかった。 そこで降りたら、晩ごはんもくれないし、朝ごはんも食べなかったから、みんなお腹が空いて何も話せないし、立つこともできずに、もがいてばかりいたから、(肩を指差して)ここのところが皮膚が擦り切れてしまって。夕方になって見たら、どこに行ったのか一緒に連行されてきた女の子たちがみんないなくなったんだ。夕方に日が暮れて見たら、誰もいなくて、私一人だけ残ってたんだ。大変なことになったって。大騒ぎをして呼びながら人を探しても、みんな連れて行かれて誰もいないんだ。そうして、後で日本のやつらが私一人残ったけれど、これからどうするんだって念を押すんだよ。そうして、少しすると誰かが来てつかんで連れて行こうとするから、あがいたりもがいたりしたら、一人が脚を片方ずつ、腕を片方ずつ、そうして持ち上げられて連れて行かれたんだよ。男たち、4~5人に持ち上げられたら、幼い私には何もできなかった。そうしてののしりながら、あそこに連れて行かれたのさ。

東アジア歴史ネット
ノ・チョンジャ『巻番』『屋根のない汽車』より
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0009_0010


チャン・ジョムドル

『やつらが来て、補償して、私たちに謝れ』
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0010_0010
<魚拓>
https://archive.vn/26MbU
年齢 内容
1923年   忠清北道永同生まれ
1938年 16歳 永登浦で日本軍「慰安婦」として連行
満州牡丹江の付近で日本軍「慰安婦」の生活
1940年 18歳 一番目の子供を妊娠
シンガポールの慰安所に移動
1941年 19歳 一番目の子供を出産、すぐに死亡
1942年 20歳 二番目の子供を出産、すぐに死亡
1943年 21歳 三番目の子供を出産、すぐに死亡
1944年 22歳 四番目の子供(娘)を出産
1945年 23歳 解放後、娘と一緒に故郷の永同へ帰国
1946年 24歳 浦項のヤン某の家に居住
1948年 26歳 慶尚道や大田、ソウルなどで商売
1960年頃 38歳頃 従姉妹の娘を養女縁組する
1964年 42歳 ソウル市恵化洞で家政婦として働く
慰安所で産んだ娘は渡米
1965年 43歳 慰安所で産んだ娘が死亡
1990年代   同居人クォン某死亡
1970年初めと推定   中学生の孤児を養子縁組
2001年 79歳 日本軍「慰安婦」登録
2004年 82歳 仁川で養女夫婦と暮らしている

木綿工場

山の丘の上にあるんだけど、ちいさな家があって、そこに連れて行かれたんだ。 家族は永同市内から10里入ったところにあるテパッマ里に住んでいたんだけど、今度はそこから永同邑に引っ越したんだ。 学校にはその門前にも行けなかったから…私の父さんが勉強させてくれなくて。娘を勉強させたら、他人の家が滅びる(女性が自己主張しだすと家庭が崩壊する、といった俗説)って、いつも本を取られて。あぁ、頭は良いんだけど、勉強をさせてもらえなくて、後悔してるんだよ、私が、父さんを恨んで。

兄弟は、女が6人で男が2人。姉さんたちはみんな結婚して出ていって。永同に来てから、私は日本人の家に少しいたんだ。子守りをしてね、生きていくために…その家からお金を盗んで、昔、あれをする人がいただろう?独立運動。盗んで、独立運動をする人たちに渡そうと思って。子守りをしに行ったから、赤ちゃんのおくるみみたいなのがあるだろう。そこに入れて行ったんだ。行ったんだけど、その日は、その家の主人がお金を探さなかったんだけど、次の日にお金を探したんだよ。それで、私のことを疑ったんだ。それで、黙って元のところに置いておいたら、『あ、隅にあるのに気付かなかった』って言って。隅っこに隠しておいたから、急いで持っていって。使わなくてよかったよ、使ってたら、その日は大変な目にあっただろうよ。そうして、その日からその家を出て来たんだよ、その家に1ヶ月いたんだけど。

そう、その家の運転手、事務をしてた人が言ったんだ、『お嬢さんは、とにかく普通じゃない。ちゃんと勉強すればよかったのにな』って。 昔、田舎で映画を上映したりしただろう。それを見物に行こうとすると、父さんが怖くて、黙って逃げたんだけど、旅館で働く男が一人いたんだ。その人が、やたらと私を追っかけるんだよ。私の父さんが知ったら、死ぬほど叩かれるさ。それで、他の家に入る振りをして、私の家に帰ったから、二度とは訪ねて来れないじゃないか。そうやって知恵を使ったのさ。なのに、どうしてあんなところに連れて行かれたのかはわからない。家で、暮らしが厳しいから…叔母さんがソウルで息子二人と住んでたんだけど。家が大きいから、下宿屋をしながら暮らしてたんだけど、そこにおいでって言うんだよ。 その時は15歳か、16歳か、記憶がはっきりしてないよ。

永登浦に木綿工場っていうのがあったんだ、日本人たちがやっていたようだ。両親には工場に行くって話して、叔母さんの家に行ったんだ。 永登浦の駅前に降りたら、ある男が私にどこに行くのかって聞くんだよ。それで、工場に行くんだって言ったら。そうしたら、工場に行くんだったら、自分が工場で働いてる人間だから、ちょうど良かったって、工場に行こうって言うんだ。そうして連れて行かれたら、山の丘の上にあるんだけど、ちいさな家があって、そこに連れて行かれたんだよ。『どうして工場に行くって言ったのに、ここに連れて来たの』って言ったら、夜だから日が明けたら行こうって。それで、そうなってしまったんだよ。 その人が日本人なのか、韓服を着ていたからわからないよ。後で見たら、軍属、軍人じゃなくて軍属っているだろう。それだと思うよ、着ていたのを見たら。まあ、韓国人のようでもあったし、話しぶりを聞くと日本人だったようでもあるし、わからないな。

東アジア歴史ネット
チャン・ジョムドル『木綿工場』より
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0010_0010



キム・ボンイ(仮名)

『誰に向かって話せばいいのか、天はわかってくれるだろうか』
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0011_0010
<魚拓>
https://archive.vn/fLb7R
年齢 内容
1927年   全羅北道高敞郡生まれ
1942年 16歳 日本軍「慰安婦」として連行され、日本で日本軍「慰安婦」の生活
1945年 19歳 帰国して光州に到着
1956年 30歳 婚姻届
娘を出産
1970年頃 44歳頃 夫と死別
1992年 73歳 日本軍「慰安婦」登録
1993年 67歳 太平洋戦争犠牲者遺族会を通して日本軍「慰安婦」登録
2004年 78歳 全羅北道高敞で一人で暮らしている

令状通知書

逃げ回って、隠れ回って、そうして長城で捕まったんだよ。16歳で行ったんだろうか。春に行ったはずなんだけど。 私がここから日本に行く前には、父さんと私と二人で一緒に暮らしてたんだよ。母さんは幼い頃に死んで、日本に行く頃は父さんと私と、下の兄と一緒に暮らしてたんだよ。 私に令状が来たんだよ、その時。 日本に行けっていう令状通知書。通知書が出たんだけど、逃げ回って、隠れ回って、そうして長城で捕まったんだよ。正直言って、日本人よりは、日本人の手先をやってる朝鮮人、あいつらが本当に悪いやつでね。あいつらの方がもっと乱暴なんだよ、もっと。 

赤い札だったか、黄色い札だったかが出たんだよ。日本募集工場へって書いてあった。 書いてあるのは、慰安婦供出って書いたら誰も行かないだろう。だから、やつらが言うのは、これこれだからこれが出た、すると、うわぁ、挺身隊の供出が出たって言ってね。それで、周りでも女たちを隠しておいたけど、何も言わずに全部捕まえて行ったんだ。 その時のことを考えると、あぁ、体中の血が逆流するような感じがするよ。あぁ、そいつらが、どこかに隠れていたら探し回って、『ここにいる!』って言って連れて行って…だから、その前に大きな子供たちは、みんなこうして大きな甕の中に座らせて、その上に綿、綿を置いて…みんな隠れて、そうしてみんな無事に行かずに済んだっていうんだ、私も聞いた話なんだけどね。

家でも隠れて過ごして、長城に薬を買いに行って、長城で捕まってしまったんだよ。父さんが体が良くなくて、父さんの薬を買いに行ったんだ。それで、薬を買いに行って、そこで捕まってしまって。 兄さんがいたんだけど、その時、日本帝国の時の軍人たち、あの頃には軍人って言わなかったよ。あの時はヘイタイ。それに行かないように避けて家にいないから、私しかいないから、私が買いに行ったんだよ。 全然知らない人に捕まって、その二人に連れて行かれたんだ。その捕まえて行くやつ、韓国人の手先たちだよ、連絡係。そばに人がいても関係ないんだ。人がいようがいまいが、連れて行くんだから。だしぬけに来て、ガバッと捕まえて行くんだから。 あの頃は、誰かが止めに入ったりすると、その人も殴られるんだ。お前、どうして止めるんだって。だから、誰もがじっと見ているだけだ。制止する人はいないんだよ。 一人だろうと二人だろうと、捕まえたら捕まえただけ乗せて行ったんだ。捕まって、引きずられて行って。うまく車に乗せられたら、車に乗って行って。 こんな部屋みたいな所に人を集めて、私たちが行った時は、もう何人かいたんだよ。だいたい、3~4人、4~5人。そこに捕まえて入れておいて、出ることも入ることもできなくして、小便をしに行こうとしてもついて来るし…逃げることもできなくて、何もできなくて。そこで、そうして一晩寝て、その次の日に船に乗ったんだ。ああ、ぞっとするほどに屈辱を受けたんだ。誰にこんな話をすればいいんだい、天や地は知っているだろうか。はぁ、話すことができないよ、本当に。そうして行く途中で、どこかは知らないけれど。人を集めて、船で行く途中に、船で死ぬ人がいて、船で行く途中で死んだら、海の中にドボンと捨てて行くんだ。行く途中でも少しでも気に入らなければ袋叩きにされるんだよ。私も、銃床でここを殴られて、今は年をとったから、頭が痛くてつらいんだよ。ここを(手で頭の右側の部位を指して)こっち、こっち側だよ。中途半端に裂けてしまってね、ここから血が流れてしまったのなら少しはましだったのに、血が流れないで青あざができてしまったから、ただ頭がちくちくと痛くて、めまいもするし、痛いし。私たちのことをどうして連れて行くのかって声を上げたんだよ。そしたら殴られたんだ。船でもじっとしてて、死人のようにおとなしくしていれば殴られなかったよ。 はぁ、船でわめいた人は、水の中に叩き込まれたり、それで死んだら海に捨てられてしまうんだ。そうやって抵抗するから、お前たちが日本に行ったら、工場でお金を稼いで家にも送ってあげられるのに、どうして抵抗するんだって。行って、工場を見たら、ものすごくて驚くだろうって言うんだ。どこに行くのかは知らなかったさ、知らなかった。私は分別がつくのが遅かったんだよ。その、月経、それもまだだったんだ。日本に行ってもまだまだ来なかったんだよ。他の人はみんなあるのに、私は来なくて、それで私はどこかおかしいのかと思っていたら、それでも19歳になったら始まってね。それで、私は病気じゃないんだって思ったよ。

私は姓をキムに変えてしまったんだよ。うちもそれなりに家柄のある家だから、みだらで汚いから。日本語で名前をキントキさんって言ったんだ。船の中で名前を言えって言われたんだ、姓と名前を。それで、その考えが浮かんだんだよ。キム・ボンイって言ったんだ。そうしたら、友だちの一人が同じ一家だって、自分と同じ姓だって、私のことを本当にかわいがってくれたんだ。 犬や豚もそんなことはできないよ、犬や豚も。あぁ、むごたらしいやつらのことを私が全部見て過ごして、死なずに生きて帰って来たんだ。

東アジア歴史ネット
キム・ボンイ(仮名)『令状通知書』より
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0011_0010



キム・スンアク

『私の思い通りにできることは何もないよ』
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0012_0010
<魚拓>
https://archive.vn/TG3Cz
年齢 内容
1928年   慶尚北道慶山市生まれ
1943年 16歳 家にいた時に就業詐欺で連行
慶山-大邱紹介所-ソウル紹介所-ハルビン-内モンゴル-北京へと移動
1944年 17歳 北京、張家口で日本軍「慰安婦」の生活
1946年頃 19歳頃 鴨緑江を経て平壌に帰国
1947年頃 20歳頃 ソウルで遊郭生活
1948年頃 21歳頃 群山、麗水などで料理屋生活
1949年 22歳 麗水で長男妊娠、故郷に戻った後に出産
1953年 26歳 東豆川などで米軍相手の売春、闇ドル商で生計を維持
1957年頃 30歳頃 次男を妊娠、出産
1977年頃 50歳頃 女中奉公、冷麺商売で生計を維持
2001年 74歳 日本軍「慰安婦」登録
2004年 77歳 慶尚北道慶山の永久賃貸アパートで1人暮らし


キル・ウォンオク

『私の思い通りにできることは何もないよ』
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0013_0010
<魚拓>
https://archive.vn/hnxOa
年齢 内容
1928年   平安北道熙川生まれ
(住民登録上の出生年度は1927年)
1940年 13歳 満州のハルビンで日本軍「慰安婦」の生活
1941年 14歳 性病にかかって帰国
1942年頃 15歳頃 中国の石家荘で再び日本軍「慰安婦」として生活
1945年 18歳 仁川に帰国
1948年頃 21歳頃 忠清北道温陽で死別した男性と再婚
密造酒を造って生計を維持
1954年 27歳 妻帯者のファン某と同居
富川で雑貨商、卸売などの商売
1958年 31歳 養子を引き取る
1976年頃 49歳頃 借金の保証人になってお金を返すことになり、生活が厳しくなる
ファン某と別れる
1998年 71歳 日本軍「慰安婦」届出
2004年 77歳 現在、政府の補助金で仁川の賃貸アパートで一人で暮らしている

罰金

20ウォンのお金のために、私を買って行って、私の父さんを監獄から出してほしいって思って行ったんだと思う。

私が生まれたのは平安北道なんだけど、まだ幼い頃に平壌市に出てきて、私の兄の布団の上に乗って川を渡ったことを覚えているんだ。それだけはかすかに思い出すから。たぶん、4~5歳だったか、5~6歳だったか。 私たちは5人兄弟で、上に兄が二人、姉が一人、私、下に弟がいたんだ。 うちの父さんはお酒を飲み過ぎるっていうか。とにかく、よく外泊する人だったみたいで…父さんがそうして歩き回っていたから…そうして、間もなくして父さんが来たんだけど、一緒に暮らす間に古物屋をしてたんだよ。父さんと出会う前に母さんは、今で言えば魚屋、訪問商売して魚を売る、それをやってたのを覚えている。アム洞で古物屋をすることになったんだけど、その時には私を学校に行かせたようでね。それで学校に行って帰って来たら、ざわざわと大騒ぎになっていて、父さんが捕まって行ったって、古物屋をしていて。今もそうだろう。盗んだ物を買ったら、買った人が捕まって行くじゃないか。その時も、それで捕まって行ったんだと思う。 学校も、家がそんなふうに破綻してしまったから、通えないだろ。2年位だったかな?1年以上学校に通ったと思うけれど…兄さんたちも学校にあまり通えなかった。上の兄さんも、平安北道の熙川から平壌に来て、暮らしが厳しいものだから母さんを手伝って働いてばかりいて、勉強するのを見たことがなかった。 古物屋をしていた父さんが監獄に入ったから、勉強なんかしてどうするんだって…

当時の私は、あまり考えないで行動してたんだね。だから、どうせ何か習いたいなら、巻番に行って習ったほうがいい、習ってない人と習った人は違うからって、そこに入れられたみたいなんだよ、誰かに。 昔は、ムチを打たれた妓生、ムチを打たれなかった妓生って言われてね。巻番に行って習った人、習ってない人って区別して、巻番を卒業した人はムチを打たれた妓生だって言われたんだよ。それで、平壌の妓生が有名だったんだ。そこに行って、西島 を少し習ったんだけど、それも意味もわからなくてね。そこに何ヶ月か通っていたら、後で兄さんに見つかって叩かれたよ。私は、見方によっては不良っていうんだろうか。13歳の子が何がわかってそんな所に通うと思うか。その頃が12歳、13歳の初め頃。それくらいだったと思う。それで通っていたんだけど。右手の親指を痛めてから、チャングっていう太鼓も叩けなくなって、それで、その巻番にいた女の子と一緒に『私たち、お金を稼ぎに行こうか』って話になって、それで出てきて満州に行ったように思うんですよ。 父さんの監獄の罰金が、その頃のお金で20ウォンだったか、いくらだったか、そんな話があったみたいで。そうしたら、私が稼いで払うって。 友だちと一緒に…どうやって知ったのかは分からない。だから、たぶん分別もなく20ウォンあれば父さんが監獄から出られる、それだけを考えて、お金を稼げるって言うから、行こうって話になって、それで行ったんだと思う。 売られて行ったのか、それともただ、どうにかこうにかして行ったのかは分からないんだけど、とにかくはっきりと覚えているのは13歳だったってこと。13歳なのに満州に行ったんですよ、豆満江を渡って。

東アジア歴史ネット
キル・ウォンオク『罰金』より
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0013_0010


※17:20追記
<管理人の独り言>
慰安婦募集のこの画像は、ナヌムの家で私が撮影したものです。

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ナヌムの家にもこうした資料はありますが、多くの韓国人は知らないでしょう。そもそもそんな所に彼らは関心がありませんから。



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