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東アジア歴史ネットというサイトから慰安婦たちの年表とサイト保存

<管理人の独り言>
昨年まで韓国女性家族部のサイトで慰安婦たちの証言を閲覧することが出来たのですが、今日、久しぶりにアクセスしてみるとサイトが大幅リニューアルされていて、サイト名も『日本軍慰安婦問題研究所』と変わっていました。女性家族部がやってる事に違いはないのですが、慰安婦個人個人の証言が見当たりません....私が以前翻訳したイ・ヨンスの証言も見当たりませんでした。韓国は時々こういう事があるので魚拓を取っておくべきでした...反省。→ 読者の方からの情報により、魚拓がある事が分かりました。ありがとうございます!☟に追記しました。

もしかするとリニューアル中なのかもしれませんが、一応リンク貼っときます。
日本軍慰安婦問題研究所
https://www.archive814.or.kr/


そこで今回は韓国の北東アジア歴史財団という団体が運営している東アジア歴史ネットというサイトから何人かの慰安婦の年表と彼女たちの証言の魚拓をとって残しておきます。東アジア歴史ネットでも以前はイ・ヨンスの証言があったのですが、見事になくなっていました。

韓国人が言う生き証人の証言をどうしてなくしてしまうのでしょうか。疑ってしまう。

※スマホの方は年表が見づらいかもしれません。すみません。

※2021.02.17 08:15追記
読者の方からの情報提供により、イ・ヨンス証言の魚拓があることが判明しました。

<魚拓>
イ・ヨンス
https://web.archive.org/web/20201128103531/http://www.hermuseum.go.kr/cop/bbs/anonymous/selectBoardArticle.do?bbsId=grandmavoice_main&nttId=6176

キム・スンアク
https://web.archive.org/web/20201128111039/http://www.hermuseum.go.kr/cop/bbs/anonymous/selectBoardArticle.do?bbsId=grandmavoice_main&nttId=6183&fbclid=IwAR1bXI26QMRLhDoy83rqCrax74Ef8wUEdSvhkDNnxUj-UKcHSPrctBbl9Oo

魚拓は2020年11月28日に作成されたとなっています。

その後、サイトが改変され現在の『日本軍慰安婦問題研究所』となっていますが、当時はサイト名も『女性家族部』でした。

Mさん、大変有益な情報をありがとうございました。


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外部サイト人気記事


コン・ジョムヨプ

『あんなたくさんの軍人たちが、私にあれほど来るとは夢にも思わなかった』
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0002_0010
<魚拓>
https://archive.vn/gbbVl
年齢 内容
1920年   全羅南道務安生まれ
1930年 16歳 平壌の職業紹介所に騙されて行く
海城-上海-ハルビンなどで日本軍「慰安婦」の生活
1943年頃 24歳頃 ハルビンで宝城の男性と所帯を持つ
1945年 26歳 宝城の男性と全羅南道海南に帰国
1947年頃 28歳頃 海南でパク某と婚姻
1953年 34歳 息子を出産
1955年頃 36歳頃 ムダン(巫堂、韓国のシャーマン。巫女)で生計を維持 パク某死亡
1958年 39歳 ムダンの男性との間に娘を出産
1962年 43歳 娘死亡
2004年 85歳 海南で息子夫妻、孫たちと一緒に暮らしている


キム・ファジャ(仮名)

『日本のやつらめ、戦争じゃなかったら、私たちが行くはずないだろう』
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0003_0010
<魚拓>
https://archive.vn/UfxdG
年齢 内容
1926年   慶尚北道安康生まれ
1942年 17歳 家から就業詐欺により連行
台湾キゴで日本軍「慰安婦」の生活
1946年頃 21歳頃 船に乗って釜山に帰国
1948年 22歳 安康で妻帯者のファン某と同居。絹商売で生計を維持
1960年頃 35歳頃 養子を迎える
1968年 43歳 ファン某死亡
1970年頃 45歳頃 家政婦の仕事で生計を維持
1975年頃 50歳 レストラン、食堂などで働きながら他郷で生活
1999年 73歳 大邱に定着
2000年 75歳 日本軍「慰安婦」として登録
2004年 79歳 大邱の永久賃貸アパートで生活


チョン・ソウン

『生き残れたのがまるで夢のようだよ。でも夢にしてはあまりにひどい悪夢だった』
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0004_0010
<魚拓>
https://archive.vn/lcueZ
年齢 内容
1924年   慶尚南道河東生まれ
1941年 18歳 家から就業詐欺で連行
釜山-下関-台湾-中国広東-シンガポール-サイゴン-インドネシアなどへ移動
1942年頃 19歳頃 インドネシアのスマランで日本軍「慰安婦」の生活
1945年 22歳 解放後にシンガポールで収容所生活
1946年 23歳 釜山に帰国
1947年 24歳 チェ某と結婚
1971年頃 48歳頃 夫が死亡
1975年頃 52歳頃 キム某と同居
1992年 69歳 日本軍「慰安婦」登録
2004年2月 81歳 持病のため死亡


カン・イルチュル

『胸の奥にしまっておいたことを話そうとしたら、私の胸も張り裂けるよ』
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0005_0010
<魚拓>
https://archive.vn/1VQek
年齢 内容
1928年   慶尚北道尚州生まれ
1943年 16歳 家から日本軍「慰安婦」として連行(*)
安東・新義州を経由-長春-牡丹江の慰安所へ移動
1945年 18歳 初夏に朝鮮人に救助され、卾倫春(オールンチュン)へ避難 解放後に吉林市近郊の集安県で朝鮮人と初婚
1946年 19歳 娘を出産するもすぐに死亡
1949年 22歳 集安県の個人病院で看護師生活
1951年 24歳 吉林市第2病院で看護師生活
1955年 28歳 朝鮮人と再婚
その後、息子二人娘一人を出産
1988年 61歳 赤十字を通して韓国を訪問
1998年 71歳 韓国訪問後に国籍回復を試みる
2000年 73歳 永久帰国および国籍回復
2004年 77歳 京畿道広州にあるナヌムの家で生活

(*)刀をさした巡査
怖いし、犬が震えるみたいに震えてたから、何がなんだかわからないし。

「里長が、もうそれを噂にして流してたんだ」
「慰安婦とは呼ばないで、供出って言ってね。乙女供出に行くって」
「最初は、私は他の所に行って隠れてたんだよ。私の母親の友人の家に行って、少しいたんだ」

「末っ子だから、母親と一緒に毎日、お母さんに抱きついて寝て、胸を触って、そうしてたんだよ。だから、耐えられなくて」

「そうして離れて行ったから、母が恋しくなって、泣いたりするから、その家で連絡したんだよ。そうしたら、帰って来いって言うだろう。だから帰って来たんだ。来たら、母に会うこともできなかった。 大人たちは家にいなくて。私の家は少し離れた所にあってね」

「日本人が一人来て、韓国人が一人来て」

「そうして、刀を差したやつ(巡査)が一人来て、また黄色い服を着た人(軍人)が一人来て、そうだったよ」

「怖くて、あぁ刀を差した人を見ただけで、怖くてブルブル震えて、隠れたりしたんだよ、その時は。巡査が怖くてね」

「文字を一つ書いて、家の中に投げ入れて行ったんだよ。 そうしたら、甥が止めようとするから、甥をつかんで後ろに倒して。…大人もいないのに」
「それで、家に帰って来た日に、その日にそうなったんだよ」

「兄たちは、一人は私の母が追い出したも同然なんだけど、上の兄は軍隊じゃなくて、他のそれ(徴用)があったんだけど。そこに送ろうとして。下の兄は軍隊に行けっていうのを逃げ出して、日本に行ってたんだ。だから仕方ない。だから、二人の男たちが行くはずだったのが、その次に私が捕まって行ったんだよ」

「どこに行くとか、最初はその人たちは何も言わないで、里長が言うには、麻布を織ったりする所に行くって言うんだよ、布を織る所、そういう所に行くって。…私たちは何をするのかもわからないし。その頃は幼いから、年も幼いから」

「16歳になる、16歳のときに行ったんだ」

「尚州市内から乗って行かなくちゃならないんだけど、その頃も尚州市内だったんだ。」

「車に、何だっけ、荷物を載せる所、そんな所に乗せられて行ったんだ。そうしたら、ある女の人は体の調子が悪くなったのか、何なのか、とにかく倒れちゃってね。具合いが悪いのか、驚いたからなのか、とにかくわからないけれど」
「そうして、金泉に行って汽車に乗ることになったんだ。 それも、座席もなくて、荷物を載せる所、そんな所に乗せられて。私たちは逃げてただろう、どこかに隠れてて。だから、待遇が悪かったんだ。だから、外を、何か見ようとしても本当に難しかったな」

「おにぎりみたいなのをこうして、あと、日本人の大根みたいなの、そんなのを受け取って、あまり食べられなくてね。怖いし、ガタガタ震えてるから、何がどうなってるのかわからないし。お腹がすくのも知らず、お互いに見つめては泣いてばかりいてね、どこに行くのか」

「そうあの、北朝鮮に、新義州に、安東に行って。どこに行ったのかもわからなかった。どうにかなって、気が気でないまま、何とかして少し見てみたら、中国人がいて、私たち韓国人じゃなく、ペラペラ話していて」

東アジア歴史ネット
カン・イルチュル『刀をさした巡査』より
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0005_0010



ソク・スンヒ(仮名)

『どうしたら、この仇を討てるだろう』
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0006_0010
<魚拓>
https://archive.vn/A9adz
年齢 内容
1928年   ソウル市麻浦生まれ
1941年 14歳 ソウル市麻浦区ポクサゴルで連行(*)
中国まで移動 内モンゴルと推定される所で日本軍「慰安婦」の生活
1945年 18歳 解放後8ヶ月間、北京に滞留
1946年 19歳 仁川港を通して帰国
1950年 23歳 朝鮮戦争の際に大邱に避難
1951年 24歳 吉林市第2病院で看護師生活
1956年 29歳 江原道の食堂で2年間調理補助
1959年 32歳頃 大邱の倭館で食堂を経営
1992年 65歳 水原に引っ越す
1993年 66歳 日本軍「慰安婦」登録
2004年 77歳 京畿道水原市で甥夫婦と暮らしている

(*)女たちを一列に並ばせて、秤で体重を量ったんだ。

「その時が大東亜戦争が起きたって言ってたよ。(小さな声で)14歳の時。その頃は何もわかんないだろ。何もわからなかったよ」

「麻浦区孔徳洞ポクサゴル、そこには、米を精米する精米所があって。 その時が秋だったと思う、初秋の頃だったと思う。町内で放送をして、ポクサゴルの大きな精米所の前に集まれって言うんだ。何歳までの女は全部ここに集まれって放送してね。そんなふうにして出て来いって言うから、両親たちもついて来たよ、なにごとだってね」

「それで出て行ったら、町内の女たちを一列に並ばせて、米の重さを量る秤で体重を量ったんだ。そこで体重が少しある、丈夫な女たちはすぐにトラックに乗せられたんだ。銃を差した軍人もいて、韓国人もいた。日本の軍人は何人もいたよ、民間人もいて。そいつらが、全部車に乗れって言って、引っ張り上げてた。 私はその時、55キロか60キロだったんだよ。今もそうだけど、体格がよかった。あ、そいつらが体重があれば、すぐにトラックに乗せるんだよ。それで、私もそのままトラックに乗せられたんだ。そうして、強制的に車に乗せるから、私の母は私の娘をどうして連れて行くんだって、ぶら下がって、泣き叫んで、罵って。だからって、奴らがそれを聞いてくれるわけないだろう。ほとんどの女の子たちは一度に、そこから10人くらいが連行されたはずだ。 トラックの中には銃を差した軍人が一人か二人いて、前には運転手と軍人がもう一人乗っていたようだった。真っ暗で、テントをこうして覆っているから、どこかどこなのかわからない。 ああ、ひどいもんだよ。胸がドキドキするし。どうしたらいいのかわからないし。何も考えられなかった」

東アジア歴史ネット
ソク・スンヒ(仮名)『体重測定』より
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0006_0010



イ・オクソン

『あの歴史を、初めは恥ずかしくて話をきちんとできなかったじゃないか』
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0007_0010
<魚拓>
https://archive.vn/vLBTn
年齢 内容
1927年   釜山生まれ
1941年 15歳 釜山-釜山鎮のうどん屋に売られて行く
釜山鎮のうどん屋から蔚山へ売られて行く
1942年 16歳 蔚山から日本軍「慰安婦」として連行
中国図們の飛行場-近所の西市場の慰安所へ移動
1945年 19歳 シム某と結婚
1955年 29歳 キム某と再婚
2000年 74歳 永久帰国
2001年 75歳 韓国国籍を回復
2004年 78歳 京畿道広州にあるナヌムの家で生活

学習熱

私がどれだけ嬉しかったことか。飛び跳ねながら、学校に行かせてくれるっていうから、行くって言ったのさ。 釜山で生まれたんだけど、元々は両親の本来の故郷が黄海道でね。だから、1927年、10月10日、陰暦で。…釜山で生まれて、15歳まで育ったんだ。 学校に行かせてほしいって言うと、母さんに『学校は行けない、お金がない、お前が学校に行ったら、誰が学費を出してくれるんだい…お前が弟たちの面倒をみてくれなかったら、母さんがお金を稼げないし、食べることもできないから、お前が家で弟たちの面倒をみてくれないといけない』って言われて、学校に行けなくて、そうして15歳まで泣いてたんだよ。

毎年一回、学校に入る頃になるたびに泣いて、泣いて。

ある日、母さんが『お前は学校に行けなくてそうしてるけど、ある子供がいない家で、お前を養女に迎えて、お前を学校に行かせて勉強させてあげるって言ってるんだ』…だから、私がどれだけ嬉しかったことか。

飛び跳ねながら、学校に行かせてくれるっていうから、行くって言ったのさ。

そこに行ったのは、そんなんじゃないよ。私があんまりにも学校に行きたいって言うから、母さんも苦労してるし、私のことを持て余して、ひどく生活が厳しいこともあって、だから私を他人の家に送ってしまったんだ。

行ったら、小さなうどん屋だった、…釜山鎮にあった。

私は髪の毛を(腰まで手を下ろしながら)これ位伸ばしてたんだ。そんなに長かったから、私が一人で髪の毛を結えなくて、母さんが髪をとかして結ってくれるか、父さんが結ってくれたんだけど、その髪をね、その家に行ったら、その髪の毛をバッサリと切ってしまったんだ。

それで、私が泣いたんだ、髪の毛を切ったのが惜しくて。だけど私は、学校に行かせるために切ったんだ、と思ったのさ。ところが、女中としてこき使われたんだよ。

ある日は、そこの主人がどんなまねをしたかって言うと…裏の部屋にお酒の膳を用意しておいて、私に行けって言うんだよ…行ったら、男が一人座ってるのさ…最近のカラオケとかに行ったらするみたいに、男たちがお酒をたくさん飲んだら、女にちょっかい出してひやかしたりして行くのさ。だから、私は払いのけて、叫んだんだよ。すると、お客さんが騒いで、主人が入ってきてね。入ってきたら、どこからこんな女を連れて来たんだって怒ったから、そうしたら店の主人の奥さんが私を(髪の毛をつかむまねをして)こうしてつかんで引きずり出したんだ。錐で刺したんだよ。(肩を指して)ここが、錐で刺された所、今も傷痕が残ってるだろ。そうして、すごく叩かれたんだ。 お客さんの相手をしないって、お客さんに失礼だって私を叱って、引きずり出して、叩いて、悪態をついて、錐で刺したんだよ。 その家で、私が言うことを聞かずにそうしているから、私のことを蔚山に売ってしまったんだ。

蔚山に行ったら、そこもまた飲み屋なんだよ、その家は。こういう2階建ての家で、そこに行って女中奉公をしたのさ。夜中の1時まで仕事しなくちゃいけなくてね。夜にお客さんが来たら、水を汲んで出してあげて。それから、何かのお茶を持って来いって言われたら、またお茶を出したりもして。こういう使い走りで行ったり来たりして、そうこうしているうちに16歳になった。 その家に何ヶ月もいられなかったよ。

その日、そうして

お使いに行って帰って来る時に連れて行かれたんだ。誰かもわからない。

無理やり連れて行こうとするのを、行かないってもがいてるうちに、少し行ったらトラックが1台あったんだ。

そうして、そのトラックにこうして乗せられて、私たちは小さいから、男たちの力に抵抗できないだろう?乗せられた以上、そのまま出発して、それでそこから降ろしてくれって叫んで大騒ぎするから、口を塞がれてね。口を塞がれたからにはもう話すこともできないし、叫ぶこともできない。そのトラックの上にいた人、私みたいな女の子たちがいたんだけど、何人いたのかはわからない。女たちがいたんだけど、だいたい5~6人いたのかな。どこに行くのかもわからない。そうしてトラックに乗せられて、汽車の駅前に行ったんだ。駅から汽車に乗って行ったんだけど、どこに行くのかもわからない。 中国に行くのか、日本に行くのか、誰も知らないのさ。

中国の図們に渡って行った後も、そこが中国だってこともわからなかった。私たちが図們に行ったのが、そこが監獄で。幼い頃は監獄ってものが何なのか、収容所ってものが何なのか、私たちはそんなことわからないさ、その時は。それで、私が直接入ってみたら…こうして少し(両手を肩幅くらいに広げて)このくらい太い鉄で、こうして格子窓があって。そんな、大きな家にコンクリートの床、そんな冷たい所に押しこまれたんだよ。そして、その時、人が何人いたのか、私の記憶では6人くらいだったと思うけど、他の人は全部一つの部屋に入れて、私一人だけ別に独房に入れられたんだ。私は、その時のことは、いくら考えても、今もよく思い出せないんだ。 そこで一晩寝て、出て来いって言うから出たんだけど、あぁ他の人は全部そこで別れて別々になったんだ、一緒に連れて来られた人たちが。別々になって違う所に送られたんだけど、どこへ行ったのかはわからないよ。

東アジア歴史ネット
イ・オクソン『学習熱』『その日、そうして』より
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0007_0010




イム・ジョンジャ

『絶対に忘れてしまってはならない』
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0008_0010
<魚拓>
https://archive.vn/FTuVX
年齢 内容
1922年   慶尚南道晋州市生まれ
1926年 5歳 釜山に移住
1938年 17歳 釜山付近の地域から満州へ連行 8年間、台湾、香港、海林、大連、上海、ハルビンなどの地域で日本軍「慰安婦」として生活
1945年 24歳 解放後、海林付近でキム某と約半年間同居
1946年 25歳 平壌の避難所を経て釜山に到着、忠武に定着
1958年 37歳 馬山に移住
1996年 75歳 日本軍「慰安婦」登録
2004年 83歳 慶尚南道馬山に居住



その一つを満たして水瓶を頭に乗せようと姿勢を取っていたら。

卒業もできなかったよ。小学校4年生の時に中退したんだから。生活が厳しくて、食べていくために、生きるために。そうして私が学校を卒業できずに、ゴムの履物の工場に入って、就職したんだ。 16歳で就職して、約1年は通ったんだ。1年通って…工場には行かないで、母さんを手伝うといって家に戻って。炊事はしなくても、水を汲んできたり、家の掃除をしたりしてたよ。

私が17歳の時に連行されたんだ。17歳なら、まだ子供でしょう。ハルモニに甘えたりする時なのに、その時にそんなこと、何がわかりますか。天真爛漫で、あまりにも幼くて何も知らなかったんですから。 あの当時は水道がなくて、泉の水を汲んで飲んでいたんだよ。忠武のその泉の上に、カトリック教の聖堂があったんですよ。そのすぐ下に(両腕を広げながら)このくらいの泉があったんです。あれは共同の泉だったのか、町内の人たちがみんなそこで水を汲んで飲んでたな。水はそんなにたくさんは出なくて、チョロチョロと流れ落ちる感じで。そうして、つるべで水を汲んで、少しずつ引き上げるんだ。 水瓶一つを満たすには、時間がかかるんだよ。その一つを満たして水瓶を頭に乗せようと姿勢を取っていたら、誰かが来て私をパンって叩くんだよ。背中を叩くんだ。後ろを振り返ってみたら、軍人なんだ。

日本の軍人なんだ。軍人が肩に星を付けて、刀を差して、帽子をかぶって。

それで、私が『どちら様ですか』って聞いたら、『お嬢さん、ちょっと話しましょう』って言うんだ。その時、横にいた人は韓国人だった。『どうしてですか?』って聞いたら、『お嬢さん、韓国で苦労しないで、良い所に就職させてあげるから、俺たちについておいで』って言うんだ。

良い所に就職させてくれるって言うんだよ。お嬢さんたちには悪くはしません。私たちが工場を、大きな工場を建てたんだけど、人を何人か探さなければならないって言いながら。 服を作る工場だって言ってたよ。その、どんな仕事をするのかまで、正しく教えてくれるもんかい。それで、私は服を作れないって言ったら、行って習えばいいって言うんだ。最初はわからないから、教えてくれる人がいるって言うのさ。 だめです。私は泉に水を汲みに来て、このことを両親に話さないで行くことはできませんって言ったら、無理矢理にトラックに乗せるんだよ、トラックに。私に力なんかあるもんか、トラックに乗せられたんだよ。 『ああ、だめですって。だめです。うちのお母さんに何も言わないで行ったら、叩かれます』怖がって泣いてそう言っても、泣いても聞いてくれないんだ。 強制的に二人に捕まって行くんだけど、どうにもできないんだよ。お母さんに話をしてから来るって言っても、だめだっていうんだ。行って、手紙を送ればいいって言うんだから、どうしようもなくて。私が男に勝てるはずはないし…運転してスッーって行ってしまうんだから。もう行くしかないんだよ。 そうして、行くんだけど、釜山まで行ったんだ…釜山に行って、また他の女の子を二人連れて来たんだ。一人は慶州の女の子で、もう一人は固城 の女の子。

釜山に行って、そこで一晩寝て、その次の日に列車に乗ったんだ。列車で行くんだけど、限りがないんだよ。 汽車の中で…両側に男が座って、私が真ん中に座って。もしかして逃げるんじゃないかって、そうしたみたいだ。 どうしようもなく気持ちが不安でね。この人たちは、私に危害を加えようとして連れて行くんだろうか、そんな気もするし、行くのも迷うし、汽車から飛び降りようかって気持ちもあって、飛び降りたら死んでしまうじゃないか。死んだらどうするんだい、お父さん、お母さんにも会えずに。走って逃げ出そうとしても、逃げる場所がどこにあるんだい、汽車の中なんだから。あぁ。どこまで行ったのかっていうと、ずっとずっと連れて行かれて、満州まで行ったんだ。 列車に乗って、2日、3日って行って、足がパンパンに腫れてね。一日中座っているから。その時は、何も食べずに、昼食も食べないでお腹が空いて死にそうだった。

東アジア歴史ネット
イム・ジョンジャ『泉』より
http://contents.nahf.or.kr/item/item.do?levelId=iswj.d_0008_0010



<管理人の独り言>
長くなったのでひとまずここまで。あとまだ7人あるんですけど、以前はもっと見ることが出来たんですよ。なんで消しちゃうかなー。

イ・ヨンスのも見えなくなってしまいましたが、翻訳したものはコチラ。


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