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ハンギョレ21から、【 5世紀、倭人は "後進種族" だったのか 】という記事の翻訳


<管理人の独り言>
※記録・資料用の記事であり、韓国人のコメントはありません。
昨日の下記の記事で、韓国人のコメントから知ることになった記事の翻訳です。興味がある方はどうぞ。長いです。




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5世紀、倭人は "後進種族" だったのか

ハンギョレ21
2008年06月05日 第713号


倭人が高級文化を習得し、朝鮮半島に軍事的影響力を及ぼしたという事実は否定できない

◆オスロ国立大学パク・ノジャ教授 韓国学

植民地主義者たちの強引な主張に対する当然の反応だと言えるだろうか。 日帝時代に、多くの官学者が侵略の名分として古代日本が4世紀中頃~6世紀中頃に一部の伽耶地域を「植民地」として治めたという「任那日本府説」を利用してきただけに、朝鮮半島の多くの学者が、この説をそのまま覆して「私たちの祖先が日本を統治した」というふうに正面から対応するか、「百済など朝鮮半島の三国が、後進国の日本に先進文物をもたらした」という部分のみを強く強調してきた。


広開土王碑文が示唆するもの

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△私たちが知らなかった倭人 伽耶戦士の姿。倭人と伽耶人は手を携えて新羅を脅かしたりもした。


かつて、丹斎・申采浩が『朝鮮上古史』(1931)で倭人について「もともと何の文化もなく、狩りと漁をして生きた無味な種族だったが、百済が彼らに王仁博士を送り、最初に漢字を教えた。 そして倭人は百済の属国となったが、天性が侵略的なので百済を時々犯すこともあった」と書いた。 日本の官学者たちの主張に挑戦し、むしろ「倭人」を一介の野蛮種族として扱い、韓国古代史から消し去りたかった丹斎の気持ちは十分理解できるが、狩りと漁以外何もできなかった野蛮人たちが、どのようにして『千字文』と『論語』を教えたという王仁博士を理解できたのかという疑問を、丹斎の読者はすでに1930年代に抱いていたかもしれない。

丹斎に続き、北朝鮮の碩学、金錫炯(キム・ソクヒョン 1915~96)氏は古代日本の多くを朝鮮半島出身者が建てた「古代韓国の分国」たちが治めたという大胆な学説を1963年に出した。 「古代日本は私たちの属国だった」という丹斎の信念を具体化したこの説に、韓国でそのまま従う学者はほとんどいないが、国粋主義と遠かった李基伯先生(イ・ギハク 1924~2004)でさえ、彼の名著『韓国史新論』で百済の側に立って広開土王の軍隊と戦った倭人たちが「百済の移住民が倭の地で建てた国の出身」と記している。

それほど「後進的な倭人」たちが朝鮮半島の歴史舞台で活動していたという事実を認めることを拒んだのは、従来の韓国史学界の雰囲気だった。 ほとんどの概説書が「百済文化の東進」という脈絡以外では古代朝鮮半島における倭人の活動についてあまり言及しない。 そのような概説書を読んだ読者に残る印象は、5~6世紀の倭人たちが百済人から少しの文化を学び、少しだけ開花し、後進的で孤立した種族だったということだ。

果たしてそうだろうか。 5~6世紀、倭人の朝鮮半島内での活動を記録した『日本書紀』(720)の記事は後に「任那日本府説」の根拠となったが、一部は伝説的性格が強く、信じ難い上、一部は『日本書紀』の編纂過程で改造・潤色されたものと見える。 しかし、『日本書紀』の記事を排除し、信憑性のある韓国と中国の史料、考古学的遺物と金石文だけで見ても、例えば5世紀に朝鮮半島との関係に非常に積極的だった畿内(京都~大阪地域)の大和政権がそこまで「後進的」ではなく、朝鮮半島の歴史に思ったよりはるかに深く介入したことが分かる。

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△私たちが知らなかった倭人「仁徳天皇の墓」として知られる大阪の大型前方後円墳。 巨大な墓が大和政権の力を誇示する。


『後漢書』『三国志』など、1~3世紀の歴史を記録した中国史書で初めて倭人の小国連盟が登場してから「倭」が再び大陸側の資料に登場し始めたのは5世紀初めである。 倭人の対外活動に関する当時の最も有名な記録は、広開土王碑文(414)である。 碑文の解釈をめぐる議論が絶えず、日本人による改作ではないかという問題もあったが、「主流的」な解釈によると、辛卯年(391年)以降、倭人が朝鮮半島に渡って百済と疎通し、新羅を侵略する関係で広開土王は己亥年(399年)、庚子年(400)、甲津年(404)、3回にわたって新羅、任那ガラ(伽耶地域)、大方(黄海道地域)で倭人を討伐する。 碑文では倭人が新羅を「臣民」のように作ったという文章まで見られるが、文字通り解釈しては困るだろう。 広開土王の立場では、倭人が域外の敵対者だったし、新羅や百済が甘い弱小国だったからそう表現できたが、新羅や百済の立場は当然違った。

新羅としては、倭人たちがソウルの金城まで攻め込んできて数日間包囲攻撃(393・405)するほどの強軍を持っていたため、未斯欣を人質に送り友情を結ぶほどもてなさなければならなかったもので(『三国史記』第3巻)、百済としてもやはり王子を人質に送らなければならないほどの主要なパートナーだった。 百済の王をまるで倭国の「臣下」であるかのように描写する『日本書紀』の記事は信憑性に欠けるが、韓国側の資料から見ても5世紀初期に倭国の使臣が来る時、百済王が彼を「特別に優遇」(403)し、「礼として待遇」(409)したことが分かる。 しかも百済の腆支王(在位405~420)はもともと倭国に人質として送られたが、倭人の親衛隊を連れてきて紆余曲折の末に即位したため、一層倭への態度が手厚かったのである(『三国史記』第25巻)。 慶州平野と洛東江流域はもちろん、朝鮮半島中部地方(黄海道)でも北東アジアの強大国高句麗を相手に戦闘を展開し、新羅・百済の王子を人質に連れて行き、百済王の即位に軍事的支援をする程度なら、果たして倭人が単なる『後進的蛮族』だったのだろうか。 彼らが任那日本府を建てて朝鮮半島の南半分を治めたという話はデマだが、韓国の資料から見ても倭国は朝鮮半島情勢に大きな影響を与える主要勢力の一つだった。


新羅と百済の王子を人質に取って

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△私たちが知らなかった倭人 5世紀末と推定される大和軍人の土偶。 彼らは、日本列島の外でも軍事活動をしたものと見られる。


当時の中国の資料による倭国も、決して「後進的で容易な種族」ではなかった。 資料の信憑性に疑問が提起されてはいるが、『晋書』には倭国が高句麗とともに413年に中国南部の晋に朝貢したとされている。 秦が宋に代わると、倭王讚がすぐそこにも朝貢し、「安東将軍」という称号を421年に得た。 高句麗・百済の統治者が得た華麗な称号に比べてレベルは低かったが、ひとまず倭国までも中国中心の朝貢外交の国際秩序にその時から編入されたと見なければならない。 その後は5世紀末まで倭王が宋に頻繁に朝貢し、中国人と一種の「神経戦」を繰り広げた。 朝貢を受ければ、辺境の君主に称号を与えなければならないが、倭王が請求した称号は野心に満ちすぎて、中国人が頻繁に削ったのだ。 例えば、「珍」が438年に自分を「倭・百済・新羅・任那・辰韓・馬韓」の6国の統治者として紹介したが、宋によって単に「倭国王」だけに封じられてしまった。 最初の試みは失敗だったが、倭王がその後も引き続き朝鮮半島国家の国名を含む称号を要求し、宋は451年からこれらの称号を倭王に下し始めた。 例えば、自身の書簡で「毛人たちの55カ国、オランケの66カ国、また海の向こうの北側の95カ国を平定した」と自画自賛し、高句麗の「非道さ」を糾弾した倭王・武は「百済王」にまで封じ込めなかったが、「倭、新羅、任那、伽羅、辰韓、馬韓」6カ国の「都督」であり「倭王」に封ぜられた。 翌年、中国の南から宋を廃して登場した斉に再び朝貢した倭王武は、「安東大将軍」より一層高い「鎮東大将軍」の号を授けられた。 彼の国力が大きくなっていることを知った中国支配者たちが彼を昇進させたわけだ。

百済と高句麗の使臣を通じて新羅など朝鮮半島の政治体が倭王の統制権の外にあることを明らかにしていた宋の支配者が、なぜ5世紀半ば以降に朝鮮半島国家の国名が登場する称号を倭王に決めたのか。 倭王武の書簡でも言及された、海外での軍事的活動にそれなりの「点数」を与えたようだ。 例えば、『三国史記』の「新羅本紀」によると、5世紀に倭人が新羅を17回も侵犯したが、金城を10日も包囲したケースもあったかと思えば(444)、約1千人の新羅人を捕虜として連れて行ったこともあった(462)。 この程度の大胆な作戦を海外で展開すれば、少なくとも2千~3千人の兵士が要求されたはずだが、小型船舶以上を作れなかった当時の倭人社会のレベルで、これ程の兵力を移動させるのに必要だった数百隻の船を作ることができたのかという疑問が残る。 船を大量生産して数千人の兵力を新羅の首都まで移動させたのではなかったなら、おそらく金海の金官伽耶や高霊の大伽耶(加羅国)など伽耶諸国と提携して彼らの領土を拠点にし、新羅を共に苦しめたのだろう。 5世紀の慶尚南道金海市斗谷43号墳と72号墳、高霊郡池山洞32号墳など、加耶の様々な墳墓から日本列島と非常に類似した板甲(甲冑の一種)が出土することは、このような可能性を強く示唆している。

また、6世紀初めと推定される日本列島式の墳墓である前方後円墳が栄山江流域の光州市明和洞と月桂洞、全羅南道咸平郡信徳・壮年・馬山里、そして長城郡氷川里などで発見されるが、その当時、百済系統の戦士たちの墓と考えられる。 当時、百済で倭人が一緒に住んでいたということは、中国の資料『隋書』でも言及されている。 つまり、倭王が朝鮮半島の一部の地域を「統治」したわけではないが、辰韓(新羅)、馬韓(全羅南道地域)、百済、伽耶の国々にわたる軍事活動を倭人が展開したと見てもよさそうである。 宋が5世紀、倭王に新羅、百済、任那、伽羅などの国名まで見られる称号を与えたのは、まさにこのような事実を考慮した結果ではないだろうか。

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△私たちが知らなかった倭人 1900年代初頭に日本で発行されたと思われる画報の広開土大王碑。 捏造論議を離れ、碑文は倭人の影響力を示している。 (写真聯合)




百済・新羅・伽耶・倭の異質感が少なかったこと

5世紀の間、朝鮮半島で活動した倭人の具体的な政治的所属がどこだったのか、今となっては正確に明らかにすることはできない。 例えば、5世紀初めに新羅を相手にしていた倭人は、今日の岡山県(本州の南)にあった吉備国という地方政権であった可能性が高く、伽耶の主なパートナーは北九州地方政権であったとも考えられる。 これらに対する大和政権(つまり、倭王)の統制力は、5世紀初めまでは非常に緩かったが、5世紀後半に入って相対的に強化された。 例えば、倭王武と同人に比定される雄略天皇(在位456~479)時代に吉備国の「反乱」を鎮圧したという記事が見られるなど、吉備国の弱体化と服属が加速した。 北九州を完全に統一したのは536年前後であったが、すでに5世紀後半に北九州などに対する大和政権の優勢が固まった状態であった。 東京付近の稲荷山1号古墳で発掘された大和政権貴族の乎獲居臣の鉄剣名門(471)によると、彼の仕えていた雄略天皇がすでに「天下を治める」(治天下)君主であった。 興味深いのは、この銘文に雄略天皇の個人名である「ワカタケル」は、「獲加多支鹵」という方式で表記されていることである。 当時の百済で漢字の音を借りて固有名詞を表記した方式と酷似している。 百済の専門家が海を渡って活動した結実と見ることもできるが、いずれにしても文字生活をこの程度に身につけた政治集団を、果たして「後進的野蛮人」と見るべきだろうか。

『北史』や『隋書』のような中国の資料で「百済や新羅がすべて倭国を大きな国として受け入れている」という言葉が出た時、これを文字通り解釈する必要まではない。 「大きな国」というよりは、両方に重大な影響を及ぼす変数の一つだったはずだ。 ところで、5世紀に日本列島で朝鮮半島出身者が大活躍したように、日本列島出身者も朝鮮半島で相当な軍事的活動をしたという事実、そして5世紀に大和政権の文字や中国の政治思想など、大陸高級文化の習得水準が少なくとも伽耶や新羅に後れを取っていないという事実などをあえて否定する必要があるのか。 今日のような意味での国境がなかったその時期、百済人と新羅人、伽耶人、倭人が互いに感じる異質感は、今の我々の考えよりはるかに少なかったのだろう。


ソース
http://legacy.h21.hani.co.kr/section-021163000/2008/06/021163000200806050713022.html
魚拓
https://archive.vn/BFXRb




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