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国家記録院から


<管理人の独り言>
※記録・資料用の記事であり、韓国人の反応はありません。

昨日、『名前すらない石の墓 ... 写真で見る日本の強制動員現場』という記事をUPしましたが、その記事で紹介されていた在日史学者のキム・グァンリョル氏の記録物が韓国国家記録院で公開されましたので、その一部をUPします。これらを韓国国家記録院は『強制徴用』の証拠として紹介しています。




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70年ぶりの帰郷、キム・グァンリョル記録物


九州の一地域である熊本県人吉市大畑駅向かいの空き地には、『鉄道工事中 殉難病没者追悼紀念碑』がある。 大畑駅は、熊本県八代市の八代駅から鹿児島県霧島市の隼人駅を往来する肥薩線を「いさぶろう・しんぺい」という名の赤い観光列車で行くと到着する。

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間組が建てた熊本県肥薩線
鉄道工事現場追悼碑(2020年2月15日撮影)
裏面には1908年3月16日に死亡した京畿道南楊州郡出身のチェ・ギルナム(33)の名前が刻まれている。 日本にある追悼碑の中で、最初に刻まれた朝鮮人労働者の名前だ。 (内容提供:アン·ヘリョン)

追悼碑は、鹿児島本線のうち人吉-吉松間の一部工事を担当した間組が1908年10月に建立した。 矢岳トンネル工事など、特に難工事区間が多かったこの区間は2年余りの工事を終え、1909年11月21日に完工した。 九州日日新聞の1908年4月2日付の記事によると、矢岳トンネル工事付近だけで500人以上の朝鮮人労働者が工事に携わっていた。 追悼碑の正面の左右には、工事中に死亡した14人の労働者の名前が刻まれている。 この中に1908年3月16日に死亡した朝鮮人労働者のチェ・ギルナム(33)の名前が刻まれている。 2020年現在、日本には日帝強占期の朝鮮人の名前を刻んだり追悼した碑が少なくとも170基以上あるという。 この中で大畑駅の追悼碑は "最も最初に朝鮮人労働者の名前を刻んだ追悼碑" となる。

「京畿道南楊州郡新市街」に住所を置くチェ・ギルナムは1908年3月16日、鉄道トンネル工事中に事故で死亡した。 多分お金をたくさん儲けられるという話にだまされて故郷を出て日本に来たのだろう。 しかし、彼の望みは叶わず、寂しい田舎の駅前の追悼碑に名だけが残った。 彼が工事した鉄路とトンネルは今も使われている。

踏査して挙げた疑問の一つは、亡者の遺骨だった。 チェ・ギルナムの遺骨はどこに祀られたのだろうか。 家族のもとへ帰ったのだろうか。 死亡当時33歳だったので、故郷には妻と子どもがいたはずだ。 家族はチェ・ギルナムが死亡したことを知っていたのだろうか。 しかし、疑問は長続きしなかった。 ところが、このような疑問をそのままにしない人がいた。 故金光烈(キム・グァンリョル、1927~2017、慶尚北道生まれ)だ。

故キム・グァンリョル氏は、1943年に独立運動をしていた父親キム・ソンギ氏の意志(公安当局からの子どもを保護しようという意図)によって渡日し、立命館大学を卒業した後、1969年に筑豊炭田の中心地である田川市に移住してから本格的な現地調査を始め、多くの朝鮮人関連資料を収集・生産(写真・録音・映像資料)し、2003年から研究書(3冊)を発表した。


故キム・グァンリョルは、なぜこのような容易ではない道を40年以上歩んだのだろうか。
生前に彼は短く「ここに来て苦労した同胞の歴史が消えてしまうから」と表現した。


1960年代末から逝去するまで続いた故キム・グァンリョルの「朝鮮人資料収集(生産)」は、個人で出来ることではない成果を生んだ。 膨大な規模や多様な媒体のためではない。 個人的な献身と犠牲の産物であり、良い影響力につながっている主体であるからだ。

彼は筑豊地域の300を超える寺院を一つ一つ訪れ、朝鮮同胞の痕跡を一つ一つ集めて整理した。 関係者を訪ねまわり、話を聞き、録音し、写真を撮った。 炭鉱が閉鎖されるという知らせを聞いたら、事務所に行って名簿を閲覧し、手書きで書き写した。 碑石下段の内部にある位牌を見つけ出し、写真を撮った。 このような作業のため、関連企業の担当者に頼み込むことも厭わなかった。 現場を毎年訪れて写真に変遷史を残した。

家に帰ってからは写真を現像して裏面に説明と写真の主人公の名前を記載した後、フィルムと一緒に保管した。 そして日記にその日の調査過程を詳しく残している。 録取録を作成し、現場で受け取った名刺もメモとともによく整理しておいた。 重要な写真はスライドフィルムで製作されている。 関係者からもらった手紙も大事に保管した。 映像資料は圧縮して嵩を減らした。 この過程で妻の献身も避けられなかった。 増える資料を管理するため、遠くから帰って来る一人息子も家で寝かしつけることができなかった。 このようにして集めた資料は、テーマ別に文書と写真、録音記録、研究成果など参考資料を一緒に整理し、完結性を備えている。

氏が収集・生産した資料の対象は、強制動員された朝鮮人だけではなかった。 開港後、日本の九州から来た朝鮮同胞、そして解放後日本で差別の象徴となった「在日」の人生を記録している。 朝鮮同胞だけではなかった。 朝鮮同胞とともに厳しい時代に強制労働の苦痛を強いられた中国人捕虜も関心の対象だった。 この資料を通じて後進者たちは100年以上の「在日」の歴史を知ることができる。 強制動員の研究者は、送出から入山、現地労働および生活実態、死亡(遺骨と死亡記録)など強制動員の全過程を知ることができる。

ならば、故キム・グァンリョルはなぜこのような容易ではない道を40年以上歩んだのだろうか。 生前に彼は短く「ここに来て苦労した同胞の歴史が消えてしまうから」と表現した。 この表現の基底には「在日」の一員として、そして在野史学者としての巨大な日本の歴史歪曲の流れと正面から対応しようとキム・グァンリョルが選択した最善の方法が、まさに朝鮮同胞の資料探しであったことを含んでいる。 彼は生前に何度も九州大学石炭博物館を中心とした「炭鉱業に対する美談」の拡散が、朝鮮人強制動員の歴史まで歪曲する現実に、積極的に対応する方法は実証的な作業だと強調した。 したがって、偏った資料ではなく、多様な視覚の資料をすべて集めて整理する方式を取ったのだ。

記録物の多くは朝鮮同胞の死亡記録と遺骨資料である。 キム・グァンリョルがこの資料に集中した理由は、独立運動家(独立運動功労褒賞者)だった父親の遺骨を見つけられなかった個人史に求めることができる。 父親ギム・ソンギは光復を迎えた祖国で6.25の惨禍の中に行方不明になった。 単なる行方不明ではなく、民間人虐殺の被害者としてどこかに埋められているという。 故キム・グァンリョル氏は生前、父親の足跡を捜すために努力し、見つけられなかったことに非常に悲しんでいた。 しかし重要なことは、故キム・グァンリョル氏が個人的に父親の跡を探せなかったことである。 彼は父親を見つけられなかった一生の宿願を通じて、他の家族を捜している「朝鮮同胞の家族」に注目した。 九州地域のお寺や納骨堂に残った遺骨や過去葬の名前を見て、彼らの生死を待つ家族、遺骨にでも会えることを望む家族の存在を認識し、痛みと結びつけた。 これらの共感能力は70代後半まで収集と教育・著述活動を持続する力となったと考えられる。


ソース
http://theme.archives.go.kr/next/forcedMob/viewMain.do#page2/slide3-2


残された人々

金光烈(キム・グァンリョル)記録を語る

「...1人の名前を消すということは、私はそんな角度から1人の名前でも珍重し、私たちとしては、なお無念の死を遂げた同胞たちをなおざりにするわけにはいかないと、私は思ったのです。 私自身が... 故キム・グァンリョル」

1938年に日本が戦時統制法である「国家総動員法」を公布して以降、日本国内の三大石炭生産地の一つである筑豊炭田への朝鮮人強制動員が大きく増えた。 朝鮮人労働者の大半は坑内労働者で、危険な採炭現場に投入され、日常的な殴打と繰り返される事故、飢えで死亡した朝鮮労働者の遺骨は放置されるのが常だった。

キム・グァンリョル自ら「孤独な実践」と語った強制動員関連資料収集の核心は、廃鉱で徴用の現場が消えていくことを記録するとともに、見知らぬ炭鉱で死んだ後、適当に放置されていた朝鮮人の死を記録することだった。 金光烈が50年間にわたって訪れた筑豊地域の寺院・過去帳は、寺院を一つ一つ訪問し、写真で撮影した朝鮮人遺骨調査の結果だ。 朝鮮人と推定される人を丸(◎、〇)、三角(△)、逆三角形(▽)などで区分している。 そして、金光烈が作成した300余りの寺院別朝鮮人犠牲者氏名遺骨調査帳、その索引目録などの文書記録とその現場を写した写真記録(寺院、過去帳、遺骨など)は、金光烈が何を語りたいのかを見せてくれる重要な記録だ。

麻生セメント労務動員朝鮮人遺骨納骨

麻生鉱業麻生セメントで強制動員され穴觀音に放置されていた朝鮮人労務者の遺骨を安置する過程を収めた写真記録である。 金光烈は、捨てられた朝鮮人の遺骨があるという知らせを聞くと、どこにでも探しに出かけた。 麻生鉱業が運営する石灰鉱山で働き事故死などで死んだ朝鮮人の遺骨が穴觀音(廃寺)に放置されたという知らせに金光烈は、麻生田川工場に朝鮮人の遺骨を奉安することを持続的に要求し、麻生鉱業石灰鉱山関連の朝鮮人無縁故納骨堂を作った。 1976年8月、穴觀音で朝鮮人無縁故遺骨の納骨のための法要を開き、田川市見立墓地に犠牲となった人々の霊魂を称える弔魂碑を建て、納骨式が行われた。 金光烈は死ぬまでここを直接管理した。

※画像は2枚一組で1枚の写真です。2枚目は写真裏に金光烈氏が記入したメモです。

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日向峠の墓_合盟墓地

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<管理人の独り言>
極一部のみを今回紹介しましたが、このほかにも写真資料など膨大にありました。炭鉱別に纏めてあったり、手書きで記録したノートも丁寧でとても手が込んでいますが、これは韓国人が主張する強制徴用の証拠ではありません。あくまで、当時の朝鮮人労働者の環境を知ることが出来る資料であり、『強制』の証拠は何一つありません。

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炭鉱別の資料、写真などまた時間があれば翻訳してUPしてみます。


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