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週刊東亜から【 安重根は撃ち、息子の俊生は謝罪 】という記事の翻訳


<管理人の独り言>
※記録・資料用の過去記事(2010.03.23)翻訳です。 ネチズンのコメントはありません。


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安重根は撃ち、息子の俊生は謝罪

週刊東亜
2010.03.23 16:30



朝鮮総督府が演出した和解劇に出演し親日行為 ... 伊藤の息子にも頭を下げる

3月26日は伊藤博文暗殺(1909年10月26日)した安重根(アン・ジュングン)義士が旅順監獄でこの世を去って100年になる日だ。 伊藤博文の死後ちょうど6ヵ月となる1910年3月26日、安義士の刑を執行した。 それから約5ヵ月後の8月29日、日本は韓国を併合した。

伊藤博文は、寺をソウルの中心に建立


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日帝強占期時、朝鮮総督府が伊藤博文の魂を慰めるために作った博文寺を訪れた参拝客たち


日帝の植民地体制がある程度定着しつつあった1930年代、朝鮮総督府は初代統監伊藤の功績を称える「博文寺」という寺を建てた。 ソウルの中心に韓国の『元凶』伊藤を称えるお寺があったという事実を覚えている人はあまりいない。

ソウル奬忠壇公園に行けば『奬忠壇(ジャンチュンダン)』と書かれた小さな碑石が立っている。 この碑文は純宗が皇太子時代に直接書いたものである。 奬忠壇は、明成皇后殺害事件当日(1895年10月8日)の景福宮の寝殿に乱入した日本の浪人などに対抗して皇后を保護しようとして死亡した宮内府大臣イ・ギョンジク(李耕稙)と、やはり同じ日に日本軍に立ち向かい射殺された朝鮮の訓練隊連隊長ホン・ギェフン(洪啓薰)の忠節を称えるために高宗の命で1900年に立てた祭壇である。 韓日併合後、朝鮮総督府は奬忠壇周辺を公園にした。 そしてこの奬忠壇のすぐ上に博文寺を建てた。 現在、ホテル新羅迎賓館が建設されている。

韓日併合後、朝鮮総督府と在韓日本人の間で伊藤の功績を称え、広く知らせようとする顕彰の動きがあり、伊藤の銅像を建立する案が何度も出された。 しかし、伊藤の銅像が公共の場に立てられた場合、朝鮮人の反感を買い、いかなる「不祥事」が起きるかもしれないという懸念から実現しなかった。 1919年の3.1万歳運動以降はなおさらだ。


その代わり、伊藤の死20周年を迎えた1929年末、銅像よりは伊藤の冥福を祈る菩提寺、つまり仏教寺院を建立しようという動きが具体化した。 元海軍大将の斎藤實が2度目の朝鮮総督に在任していた時、政務総監の兒玉秀雄が発議した。 1930年初め、寺の建立のための『伊藤公記念会』が組織された。 朝鮮総督府の職員を中心に、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)、尹徳栄(ユン・ドクヨン)ら6人の朝鮮貴族も参加した。

寺院の名称は記念会組織の時から伊藤の名を取って博文寺とされた。 寺名の前に付ける「山」という名前には伊藤の雅号である春畝を使い、正式名称は「春畝山博文寺」となった。 博文寺の宗派は伊藤が生前帰依した曹洞宗と定められた。

博文寺建設のための寄付金目標額は、朝鮮20万円、日本と満州15万円で計35万円だったが、その後40万円に増額された。 総督府は20万円のうち8万円を朝鮮方面に割り当てた。 咸鏡南道の官吏は月給の0.5~1%を支払わなければならない、ほとんど強制的な募金だった。 日本では三井のような財閥が巨額の寄付金を出すと申請した。


博文寺建設の候補地として三清洞、社稷壇、奬忠壇公園、奬忠壇公園東側、倭城台総督官邸の5カ所が選ばれた。 審議の末、「老松がうっそうと茂っていて眼下に公園が見え、遠く市街地が眺められる交通が非常に便利な土地」と評価された奬忠壇公園の東側に決定した。 当時、路面電車の終点が「奬忠壇公園駅」だった。

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博文寺で日本人とみられる2人の監督者が芝の手入れに動員された朝鮮の婦女子たちを監視している


博文寺は1931年6月に工事が始まり、32年10月26日、伊藤の23回目の命日に合わせて竣工式が行われた。 博文寺は13万8900余m²(約4万2000坪)の敷地に本堂は朝鮮式を加味した鉄筋コンクリートの2階建てで、建築面積1320m²(約400坪)、高さ約13mで、付属建物を合わせて全体の建築面積が1650m²(約500坪)に達する大寺院であった。 地下には集会室と事務室を作りスチーム暖房まで備え、当時、寺院の建物としては珍しく近代的な構造と設備を誇った。 道路も電車の終点から約22m幅の桜並木道に拡張され、道路から正門まで約120m、そして正門から約65m離れた第1階段、第2、第3階段を経て本堂前の広場に着くようになっていた。 本堂の正面には英親王が書いた『春畝山』という扁額が掛かっている。 伊藤は韓国統監時代、英親王を教育すると言って事実上人質として日本に連れて行った。

日帝は景福宮に朝鮮総督府の建物を建てる際、光化門を崩すなど宮殿を勝手に破壊し毀損したが、博文寺を建てる時も同じだった。 本堂は新築されたが、伽藍は景福宮の濬源殿、正門は当時、京城中学校の裏門として使われた慶熙宮の興化門を移設した。 正門の横の石垣は光化門を取り壊し、その石材が使われた。

しかし完工後、朝鮮人だけでなく朝鮮に住む日本人もこの寺に大きな関心を示さなかったため、博文寺側は1930年代半ばから寺をソウル観光の必須コースに変えた。 ソウル市内の遊覧バスコース(約3時間半所要)にも博文寺が含まれていた。 以後、ここで、朝鮮総督府に勤務した日本人や、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)など親日派の葬式が行われ、太平洋戦争中には慰霊祭も行われた。


親日派となった安義士の息子、安俊生

伊藤の30周忌が近づいた1939年10月15日午前11時、安義士の次男・安俊生(アン・ジュンセン)氏(当時32)が、朝鮮総督府外事部長の松澤龍雄氏とともに博文寺に現れた。 安俊生は伊藤の霊前に香を焚き、住職が準備した父の位牌を祀った後、追善法要を行った。

この日の安俊生の博文寺訪問について、総督府機関紙「京城日報」は「亡父の謝罪は報国の真心で伊藤公の霊前に頭を下げる運命の息子、安俊生[中根遺子君]と題した7面トップ記事を写真とともに掲載(1939年10月16日付朝刊)。 同紙は安俊生の謝罪を「実に朝鮮統治の偉大な変転史であり、内鮮一体もここで完全に精神的、思想的に一つになった」と評価した。これと共に「心からの喜び」という安俊生の談話も掲載した。 安俊生は伊藤の魂を慰めるために作った寺を訪れ、「自分の父親が伊藤を殺した事は誤りだった」と謝罪した。 どうしてこのようなことが起こったのか。

安義士には息子のウセン(祐生、ブンドとも呼ばれる)と俊生、娘の賢生がいた。 長男の安祐生(アン・ウセン)は1914年、北満州の武隣で日帝により12歳で毒殺されたという。 安俊生は1907年生まれで、39年には上海で雑貨商を営んだ。 その頃、上海は日中戦争(1937年)に勝利した日本軍が占領していた。 金九主席が率いる上海臨時政府も日本軍を避けて杭州などに移っていた。 当時、安俊生はすでに親日派に変節していた。 日本側の懐柔と脅迫にだまされたかは分からない。


「博文寺の和解劇」当時の新聞に特筆大書

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1939年10月7日、上海の朝鮮人親日団体会長・李甲寧を団長とする満鮮視察団14人がソウルに来たが、そこに安俊生もいた。 視察団は朝鮮総督府を訪問し、南次郎総督に会った。 安俊生は博文寺を訪れた翌日の10月16日、朝鮮ホテルで伊藤文吉と対面した。 この席に総督府外事部長の松沢が同行し、2人の出会いに総督府が介入した事が伺える。 伊藤文吉は、農商務省の官吏を務めた後、1944年から日本鉱業の社長を務めた。 この会社が平安北道(ピョンアンプクト)の雲山(ウンサン)炭鉱を購入し、その鉱山を見に来たが、帰国途中にソウルに立ち寄ったという。 安俊生との出会いが偶然であることを強調したのだ。

翌日の10月17日には、安俊生と伊藤文吉が共に博文寺を訪れた。 そして伊藤の霊前で二人の息子が「仲直り」する場面を演出した。 安俊生が「父に代わって深くお詫びします」と言うと、伊藤文吉は「私の父も、あなたの父も、今は仏になって天にいるので、お詫びの言葉は必要ない」と応えたという[『大阪毎日新聞』朝鮮版1939年10月19日付]


安俊生と伊藤文吉の対面について、マスコミは「仏門の恵みに結ぶ内鮮一体」「遺児の涙の真心、秋深まる博文寺に祀る空安重根霊位 今や伊藤公の英霊も微笑む」という題目で「真の内鮮一体、過去30年前の事件はこうして博文寺の法灯の下で愛する子供たちによって浄化された」と絶賛した(京城日報 1939年10月19日付夕刊)

「博文寺の和解劇」は、朝鮮で発行される新聞だけでなく、日本で発行される新聞でも大きく取り扱われた。『大阪朝日新聞』1937年10月17日付朝刊は、「仇を越えて温かい握手 ハルビン駅での悲劇、今は遠い夢 30年後の伊藤公と安の遺児対面」というタイトルで、写真とともに六段記事(11面)で特筆大書した。

しかし「東亜日報」は、安俊生が朝鮮視察団の一員としてソウルに来たという事実を第1段として報じただけで、博文寺で起きた和解劇については一切報じていない。 翌年、朝鮮総督府は「東亜日報」を強制廃刊する理由の一つとしてこのことを挙げた。 「朝鮮日報」は安俊生と伊藤文吉の対面を「歴史は転換する 30年前のハルビン駅の悪夢を越えて」(1939年10月17日)というタイトルで報じた。

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1939年10月16日、朝鮮ホテル。 後ろに立っている人(中央)が、朝鮮総督府外事部長の松澤龍雄だ。 安俊生(下左)と伊藤文吉(下右)の対面



白凡の痛憤「民族の反逆者、絞首刑に処せ」

安俊生の親日行為に対して、白凡・金九(ペクポム、キム・グ)は痛憤し、極言も躊躇しなかった。

「民族反逆者に変節した安俊生を逮捕し、絞首刑に処すよう中国官憲に頼んだが、実行しなかった」(「白凡日誌」619項/ノモブックス出版)

金九(キム・グ、1876年生まれ)は、安義士(1879年生まれ)と同じ黄海道(ファンヘド)出身で、安義士の父親である安泰勲(アン・テフン)進士の家にも立ち寄ったことがあり、少年時代の安重根に関する話が「白凡日誌」にも登場する。 また安義士の弟・定根(ジョングン)の娘が長男の嫁になった。 だから安俊生の親日行為に金九は胸が痛んだのだろう。 中国当局に絞首刑を頼んだほどだ。

安俊生は1950年に韓国に戻り、釜山で暮らし、翌年に病死したという。 安義士記念館のホームページの家系図には、安義士の2男1女の子どもが米国などに住んでいることが記されている。

博文寺は終戦直後の1945年11月23日に火災で全焼した(「京城日報」1945年11月26日付) 李承晩政権末期の59年、博文寺本堂跡で迎賓館の新築工事が始まったが、4.19と5.16など相次ぐ政変で工事が中断された。 64年にようやく迎賓館が完成したものの、経営が苦しくなり、紆余曲折の末、73年にサムスングループに引き取られた。 79年に迎賓館の隣にホテル新羅が建てられた。

安重根義挙100周年(2009年)を迎え、国内学界、マスコミが多角的にスポットライトを当てたが、安俊生の親日行為は扱われなかった。 ただし、「聯合ニュース」は「安重根義挙から100年、生き残った者の悲しみ」(2009年11月1日付)というタイトルで、「安俊生の親日行為は、少なくとも学界では公然の秘密だが、国内のどの研究者もこうした事実を指摘していない。 それだけ安義士の持つ英雄性が絶対的なためだろう」と分析している。

安俊生の親日は残念なことだが、だからといって安義士の業績が損なわれるわけではない。 そんな息子がいたということも屈曲の多い韓国近現代史の一断面だ。 安義士の全体像を理解するうえで、息子の安俊生の親日行為も事実どおり知っていることが望ましい。


文:イ・ジョンガク氏
イ・ジョンガク氏は東亜日報の記者として活動していたが、2004年、東京大学大学院人文社会研究科修士課程を終えて現在、中央大学で兼任講師として働きながら、日本の新聞や雑誌などに韓国および韓日関係についてコラムを書いている。 著書には、『刺客の高永根の明成皇后復讐記』などがあり、今回の記事に関する詳しい内容は『伊藤博文評伝』(根幹/東亜日報社出版)に掲載される予定だ。



ソース
https://weekly.donga.com/List/3/all/11/89651/1
魚拓
https://archive.vn/lSEwV



<管理人の独り言>
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1932年10月26日、博文寺竣工式(朝鮮時報)
朝鮮新聞19321026_6_竣工式


1939年10月 満鮮視察団について報じる記事(朝鮮時報)
赤枠下に『安重根の息子も混る』とある
朝鮮時報19391019_2_枠


★1939年10月15日、安俊生の博文寺訪問についての京城日報の記事はアーカイブに無し。

★1939年10月17日、安俊生と伊藤文吉が共に博文寺を訪れ和解した記事は無し。上記記事中の京城日報は1924年の記事しかアーカイブに無かった。

★安俊生と伊藤文吉が和解した10月17日の翌日、10月18日、朝鮮総督府の機関紙と言われた毎日申報(毎日新報)は、その件について報道している。

19391018_毎日申報

しかし、毎日申報のアーカイブではこの日の記事のみが無かった。
(上記記事画像は韓国のネットで拾ってきたもの)

大韓民国新聞アーカイブの検索画面一部
毎日申報



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