1



1971年、 韓国政府5億ドルの新規経済協力を日本に要請
1981年、韓国政府、日本政府に5年間で計100億ドルの経済援助を要求 に関する記事の翻訳。


<管理人の独り言>
※記録・資料用の過去記事(1971.03.17、2015.07.06 14:01)翻訳です。 ネチズンのコメントはありません。

1965年の国交正常化時に締結された日韓請求権・経済協力協定に基づく有償2億ドル、無償3億ドルの韓国への経済協力の後、1971年と1981年にも韓国政府は日本政府に対して支援を要請しました。

※1971年に関しては新聞記事があったので、その翻訳を。
1981年に関しては新聞記事を見つけることが出来なかったので、2015年に書かれた記事ですが当時のことを詳しく書いてあるので、そちらを翻訳しています。


・新聞の画像が荒くてすみません;;;


ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします^^
     にほんブログ村 ニュースブログ ニュース 海外の反応へ








スポンサードリンク




日本へ5億ドル要請

1971.03.17
東亜日報


1


日本へ5億ドル要請
 政府、第三次計画資金、全部10億期待


韓国は来年から始まる第三次経済開発五カ年計画(1972~76)期間に、総5億1600万ドルの資金協力を日本へ要請する方針を立て、外交ルートを通じ、要求内容を日本政府に提示したと17日、日本経済新聞が報道した。

協力要請内容を見ると、①昨年の韓日閣僚会議で日本側が約束した1億ドルの財政借款のうち、まだ具体的な交渉に至らなかった5000万ドル、②重機械、鋳物特殊鋼など、重工業プロジェクト建設へ使う7000万ドル、③ソウル地下鉄建設資金8000万ドル、④現在建設中の浦項総合製鐵追加分1600万ドル、⑤各種プラント輸入のための一般商業借款年6000万ドル(都合3億ドル)で、総額が5億1600万ドル。韓国は第三次五カ年計画期間中に約25億ドルの外資導入を計画しているが、そのうちの2/5に当たる10億ドル(既に確定分含む)を日本に期待していると報道した。



参考 外務省「わが外交の近況」(昭和46年度、1971年4月から1972年3月まで) https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1972/s47-2-1-1-2.htm#k96


安保分担金要求が泣訴へ ... また、日本に「乙」の身となった新軍部

韓国日報
2015.07.06 14:01



堂々と始めた「安保経済協力」、北東アジアの安定を望む米国も韓国を支持
新軍部「40億ドルでも....」纏わりついて支援を得たが、解釈はまちまち
日、最後まで安保協力の大義名分に同意せず、「新軍部、新しい国づくりに貢献」

1

全斗煥元大統領が1983年1月11日、日本の首相としては初めて韓国を訪問した中曽根康弘首相と乾杯している。 双方はこの時、40億ドルに達する経済協力に合意した。 韓国日報の資料写真


「韓国は国家予算の35%を国防分野に使っている。 これは韓国だけのためではなく、自由陣営の多くの国々、その中でも日本のためだ。 さらに、朴正熙大統領が亡くなった後、韓国は様々な困難な状況を迎えている。 その際、豊かな隣国として歴史的にも縁が深い日本に果敢な防衛・経済協力をお願いしたい。 具体的には現行の日本の韓国に対する協力金額を10倍に増やして年間20億ドル、これを今後5年間で計100億ドルを提供してほしい」

全斗煥政権が発足した1981年4月23日、盧信永(ノ・シンヨン)外務部長官は1週間後に離任予定だった須野部量三駐韓日本大使を突然呼び、事実上このように「通報」した。 韓国が大規模な軍事力を維持して日本を守っているのだから、日本はその代価を支払わなければならないという、いわゆる「安保経済協力論」を突然提起したのだ。 これで無償3億ドル、有償2億ドルという結論が出た1965年の請求権協定に続く大規模な経済協力論争に韓日間で火がついた。

「一国の外務部長官が突然駐在国大使を呼んで100億ドルを出せ、それも国防予算を分担しろという名目で怒鳴りつけるなんて......韓国政府は、狂ったのではないか」ソウルから飛んできた急電に接した木内昭胤日本外務省アジア局長は激昂して声を上げた。 当時、小倉和夫北東アジア課長(現・日本国際交流基金顧問)の回顧だ。

さらに当時の鈴木善幸内閣は、1979年の12.12軍事クーデターに続き、1980年の光州民主化運動を流血鎮圧した後、政権を握った全斗煥政権の正統性について疑問を抱いていた。 日本は1981年3月、全斗煥大統領の就任式に伊藤正義外相を派遣したが、伊藤は「北朝鮮の脅威」を強調し、クーデターの正当性を糊塗する韓国側の主張に全く同調しなかった。 特に、当時日本では全斗煥政権がいわゆる『5.17内乱陰謀事件』で逮捕された金大中に国家反逆罪を適用し、死刑判決を下したのに続き、その判決文すら公開しなかったために、韓国に対する世論が極度に悪化していた。 こうした中、韓国側が大規模な経済協力を安保を口実に要求するとは、日本側は「生意気な」新軍部に当惑感を払拭することができなかった。

しかし、韓国の新軍部政権にとって、このような対日要求はほぼ確信に満ちた行動だった。彼らは日本の植民地教育は全く受けていない反面、反日教育を受けて成長し、特に1965年の韓日国交正常化に対する韓国国民の猛烈な反対運動を生々しく記憶している。 したがって、これらは朴正煕政権時代の韓日関係を「黒い」政経癒着で綴られた腐敗の温床と見なし、必ず清算して正さなければならないと考えている。 当時の全斗煥政権の性格を分析した日本の外交文書は、韓国の新軍部指導層を韓日関係の「新世代」と呼び、このように評価した。 実際、許文道をはじめとする全斗煥政権の実力者たちは、過去のように「情」や「義理」を掲げ、泣き笑いするどころか、あたかも「当然のこと」を要求して受け入れるだろうという態度を見せた。

2

天皇主催の公式晩餐会で、全斗煥大統領と裕仁日皇が両国の友誼と発展のために祝杯をあげている


孔魯明当時外務次官補が1981年8月、 日本側に明らかにした経済協力要求の理由は次の通り。 第一に、韓国は国防費の負担が過大だ。 第二に、新たに経済5ヵ年計画を推進する予定だが、軍事費の負担のために支障が生じた。 第三に、それまでに、ほぼ200億ドルも積もった対日貿易赤字を構造的に解決しなければならない。 裏を返せば日本は安全保障の面で「ただ乗り」をしてきて、韓国との貿易で莫大な利益を得てきただけに、韓国が軍事費の負担を減らして経済発展に集中できるように金を出すべきだということだ。 しかし、日本側の分析によると、1981年5月に韓国政府が修正発表した「第5次経済社会発展5ヵ年計画」を果たすには、追加の大規模外資導入は全く必要ではなかった。 要するに、韓国側の主張はクーデターで政権を握った勢力が国内の安定を図るために企てた政治経済的な要求だったわけだ。

全斗煥政権の対日要求は、ソ連のアフガニスタン侵攻で激化した新冷戦とあいまって、米国からも側面支援を受けた。 1981年2月に大統領当選者の資格で米国を訪問した全斗煥元大統領は、大統領に就任したロナルド・レーガン氏との会談で、韓国が太平洋で米国防衛の防護壁の役割を果たすには役割分担が必要であり、このためには日本が韓国に巨額の援助をしなければならないと主張した。 これに対してレーガン元大統領は、「朝鮮半島と北東アジアの平和を維持するには、何よりも安全保障体制の構築が重要だ」と述べ、全斗煥元大統領の構想を事実上支持した。 これをもとに全斗煥政権は、安保分担金を出せと日本側に迫ったのだ。

しかし、歴代の自民党政権の中でリベラルな軸に属した鈴木政権は、韓国側が掲げた「安保経済協力」の論理を全く受け入れなかった。 「日本は在日米軍の駐屯費用を負担する形で米軍を支援しており、これは韓国の防衛にも役立っている。 言い換えれば、韓国と日本は米軍を介して共同で北東アジアの安保のために努力しているわけだが、日本が一方的に韓国から安保の恩恵を受けているというのは話にならない」 当時作成された日本の外交文書はこのように述べ、さらに韓国に対する経済協力を安保の論理で包む事は日本の憲法精神、すなわち専守防衛にも反すると指摘した。

だからといって日本側としては、米国が後援する全斗煥政権の要求をただ無視して、韓日関係を破綻させる事もできなかった。 新軍部のクーデターを機に、朴正熙政権時代、韓日関係の潤滑油の役割を果たした政治的人脈まで完全に断絶していた。

日本側が冷淡な反応を見せるや、いつまでも堂々としていた全斗煥政権が先に火をつけた。 韓国側は1981年8月20日と21日に東京で開かれた外相会談を通じて、当初の100億ドルより40億ドル削減された60億ドルの借款供与を公式に要請した。

しかし、これさえも日本側は受け入れなかった。 園田直外相は金額については言及せず、まず資金の使用計画を提出するよう求めた。 この過程で、盧信永(ノ・シンヨン)外務部長官は、会談中に急いでプロジェクトのリストを作成し、日本側に提出するといった寸劇を演出した。 過去の請求権交渉で請求権者である韓国が総額にこだわり、自ら交渉上の「乙」の地位を自ら招いたように、全斗煥政権も当初の「安保経済協力」という名分はいつの間にか忘れ、「債権国」日本に誠意を訴える立場になったのだ。

「40億ドル以下になると、私は死にます。 大統領も政権を維持出来ない事もあります」

韓国側の要求水準はいつの間にか40億ドルに低下していた。 盧信永外交部長官は1981年9月10日と11日、第11回韓日閣僚会議に出席するためにソウルを訪れた園田外相に「5年間40億ドルにもならないでしょうか」と頼んだと小倉氏は最近出版された著書『秘録・日韓1兆円資金』で公開した。

しかし、韓国側の訴えにも日本側は明快な答えを出すことができなかった。 当時の渡邊美智雄大臣が全斗煥との面談で述べたように、「見た目によらず日本政府は貧しかった」だけでなく、毎年プロジェクト方式ではなく多年度にわたる総額方式支援は、日本国内法上、当初から不可能だった。 しかし、韓国側がマジノ線と定めた40億ドルを日本側が何とか満たさなければ、韓日関係は回復しにくい状況になってしまった。

この時、日本側の密使として韓日関係の担い手として大活躍した人物が瀬島龍三だ。 日帝大本営の作戦参謀として、当時満州軍将校だった朴正熙元大統領の直属の上官でもあった瀬島は、日本敗戦後、シベリア捕虜として11年間抑留された後、伊藤忠商事会長などを歴任した。 自叙伝「回想録」で、大東亜戦争を「自衛戦争」と規定したほか、「新しい歴史教科書をつくる会」の後援者でもあった日本の代表的な右翼だ。 こうした瀬島が全斗煥はもちろん盧泰愚、権益現(クォン・イクヒョン)など韓国の「新世代」政治家と日本の「旧勢力」を再びつなぐ救援投手として登板したのだ。 瀬島は一時、サムスン物産常務を兼任するなど縁があった権益玄(クォン・イクヒョン)民政党事務総長とともに韓日間の「40億ドル総額合わせ」作業を背後で推進する。

この過程で、日本の朝鮮半島侵略を「進出」と、3.1運動を「暴動」と表現した1982年の第1次日本教科書問題のため、「40億ドル」論議は一時的に中断されたが、 1983年1月、中曽根康弘首相が日本首相としては初めて韓国を訪問した際に結論付けられた。 1989年まで7年間にわたって提供された日本政府借款18億5,000万ドル、日本輸出入銀行融資21億5,000万ドルなど総額40億ドルは、全斗煥及び盧泰愚政権期に各種社会基盤施設の拡充に投じられ、日本側の表現を借りれば、韓国の「新世代」政権の「新しい国づくり」に寄与した。

全斗煥元大統領が「(韓日関係を)実質的に同盟関係まで引き上げなければならない」と言うと、中曽根元首相は「過去を反省する」と日本首相としては初めて過去史に対する立場を明らかにした。 予定になかったカラオケ大会で中曽根が韓国トロット「黄色いシャツの男」を歌うと、全斗煥元大統領は日本の演歌「影を慕いて」を歌って応えた。 二人は抱き合った。 過去、朴正熙政権時代の請求権協定でも、韓日両国が「請求権」の概念を完全に異にしたように、「安保協力」という大義名分についても、両国がそれぞれ安易に解釈すれば済むことだった。 このように韓日関係は、韓国の軍部政権によって従来の政治・経済的相互依存性を維持した。

ソース
https://www.hankookilbo.com/News/Read/201507061462635043
魚拓
https://archive.vn/81VZl


参考 外務省「わが外交の近況」(昭和59年度、1983年1月から1984年3月まで)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1984/s59-2010101.htm


ブログランキング参加中です。応援よろしくお願いします^^
     にほんブログ村 ニュースブログ ニュース 海外の反応へ