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韓国、女性家族部のサイトに記載されているイ・ヨンスお婆さんの証言です。


<管理人の独り言> 
※記録・資料用サイト構築のための記事です。 ネチズンのコメントはありません。 
※今のブログのレイアウトだと見づらく、長いのでスルーしてもらって構いません。
※スマホでは見づらいと思います。すみません。


この証言が大韓民国の行政機関である女性家族部に掲載されています。
http://www.hermuseum.go.kr/cop/bbs/anonymous/selectBoardArticle.do?bbsId=grandmavoice_main&nttId=6176&


※年表の「年齢」については管理人が追記しました。元サイトにはありません。韓国では数え年を使用するため、参考に記載していますが、満年齢と数え年の差が一定ではないのは、満年齢は誕生日を基準に記載しているためです。その他は、女性家族部に掲載されたままを翻訳しています。



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年表

年度 年齢 内容
1928年
12月13日
  大邱市高城洞(テグシ・コソンドン)で2男1女の第2子として出生
年度不詳   達城普通学校入学、1年も通えず
1937年~1941年 満年齢
  9~13歳
数え年
  10~14歳
日本人が経営する繰綿工場に勤務
1941年 満年齢
  13歳
数え年
  14歳
夜学に1年程度通う。 夜学に通う時、名前はヤスハラ リヨオシュと呼ばれる
1943年 満年齢
  15歳
数え年
  16歳
七星国民学校で挺身隊訓練を受ける
1944年 秋 満年齢
  15歳
数え年
  17歳
飲み屋を営む友人の母親に勧められ、友達と一緒に軍民服を着た日本人男性の甘言によって列車に乗り、慶州に向かう。 女が7人になった時、慶州を離れ大邱に行く。 大邱から平安道安州に移動。
1945年1月 満年齢
  16歳
数え年
  18歳
安州で1ヶ月ほど過ごし、大連を経て海軍がたくさん大きな船に乗り移動しながら、太陽暦の正月を迎える。 上海に立ち寄り台湾到着。 乗船中に性暴行を受ける
1945年 満年齢
  17歳
数え年
  18歳
台湾の新竹で『としこ』と呼ばれ、特攻隊を相手に慰安婦被害を受ける
1945年解放後(1946) 満年齢
  17歳
数え年
  18歳
同行したキム・ブンスンと共に4人が釜山に帰還。 釜山で別れて汽車に乗って大邱に来た
年度不詳   大邱郷村洞のおでん屋で従業員生活をする。 その後、蔚山海水浴場で3年間商売をしている。 保険販売員としても働く
1989年1月 満年齢
  60歳
数え年
  62歳
75歳の高齢者と結婚
1992年 満年齢
  64歳
数え年
  65歳
韓国政府に日本軍慰安婦被害申告
1993年 満年齢
  65歳
数え年
  66歳
離婚
1996年 満年齢
  68歳
数え年
  69歳
慶北大学校社会教育院名誉学生として入学、3年間の過程を終え、それ以降、日本軍慰安婦問題解決に向けて国内外で活発に活動
2007年2月15日 満年齢
  78歳
数え年
  80歳
米下院外務委員会アジア太平洋環境小委員会の慰安婦聴聞会でキム・グンジャさんなどとともに共同証言を行う
2016年12月 満年齢
  88歳
数え年
  89歳
大邱弁護士会愛山人権賞受賞

移動経路

大邱→慶州→大邱→平安道安州→大連→上海→台湾新竹→釜山→大邱

解説

被害者イ・ヨンスは人権運動家だ。 日本軍慰安婦被害者の名誉回復と日本の責任ある謝罪を得るために先頭に立って、内外で活発な活動をしている。 そのため、日本の右翼の攻撃対象にもなっている。 被害者イ・ヨンスさんの証言は、自分の被害状況を知らせるだけでなく、自分の被害をどのように克服し、それを人類普遍の価値に導いているかに、はるかに高い価値を持っていると思う。

被害者李容洙(イ・ヨンス)の証言は1993年、日本で写真作家として活動する伊藤孝司の『写真記録 破られた沈黙 アジアの「従軍慰安婦」たち 写真記録』で初めて発刊された(*1) 以降、韓国挺身隊研究会研究員であるコ・ヘジョンが面談、採録して編集した、韓国挺身隊問題対策協議会挺身隊研究会編『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(ハンウル、1993)に記載されているものもある。 この証言集は1993年に日本語に翻訳された(*2) また、1996年、戦争犠牲者を心に刻む会が発刊した「アジアの声第10集 私たちの戦争責任」に記載されている証言録も存在する。 2007年、高柳美知子の『戦争と城の韓国で'慰安婦'と合わせるの』(*3) にも掲載されている。 この他にも断片的な証言は韓国、日本、米国、フランスなど多くの新聞などに散在している。

本解説は韓国挺身隊問題対策協議会挺身隊研究会編『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』に載っている証言をもとにした。

イ・ヨンスは1928年大邱で生まれた。 6人兄弟の娘として貧しかったが、愛されて大きくなった。 貧しくて学校は通わないようにしたが、夜学を通じても学び続けようと努力した。 1944年に酒商売をしていたキム・ブンスンという友人の母親が、「家も豊かに暮らせるようにしてくれる」と話した後、日本人の男性によってキム・ブンスンと一緒に動員され、慶州、安州を経て台湾に送られた。 台湾行きの船で日本軍人によって強姦された。

1945年1月ごろ台湾に部屋が20個ほどある2階建ての家に到着し、軍慰安婦生活が始まった。 相手をした軍人は特攻隊だった。 日本の軍人がイ・ヨンスの名前を「トシコ」と名付けたという。 イ・ヨンスは自分の居場所を正確に分からなかったが、特攻隊所属の軍人が歌詞を自作して歌った歌で「新竹」という歌があり、自分が行ったところを「新竹」だと分かった。 そして、主に海軍だったと証言している。 新竹は海軍基地で、飛行場もあった場所だった。

爆撃と混乱の中で戦争が終わり、埠頭の収容所で船を待って1946年釜山に到着した。 イ・ヨンスは帰還後も性病で苦労した。 そして生活のために飲み屋の従業員、屋台、保険販売員などあらゆる仕事をした。 両親が一人娘を結婚させられなかったことを心配して亡くなり、イ・ヨンス自らも死ぬ前に結婚しようと思って、還暦の時、75歳のお祖父さんと結婚したが、虐めがひどくて離婚した。

韓国政府に申告、登録して以降、イ・ヨンスの生活は様変わりした。 以前にも明るい方だったが、政府に被害者登録した後、日本軍慰安婦問題解決に向けた被害者運動家として人生を生きている。 イ・ヨンスは、日本軍慰安婦被害者として自分の被害を歴史として認識し、人類普遍の問題として引き上げ、拡散していく姿を見せることで、歴史化を遂げていくのではないかと思われる。

(成均館大学東アジア歴史研究所客員研究員ハン・ヘイン)

証言

私は1928年12月13日、現在の大邱直轄市北区固城洞で貧しい家庭の一人娘として生まれた。 家族は祖母、父、母、義理の兄1人、そして弟が4人で、全部で9人家族だった。 私は達城普通学校に入学したが、家が苦しく、1年も通わずに辞めなければならなかった。 そして13歳の時に夜学に少し通った。 夜学に通っていた時は安原李容洙(ヤスハラ リヨオシュ)という名前を書いた。 オルガンの伴奏に合わせて歌を歌い、日本語も習った。 私は勉強はあまりできなかったが、歌うのは好きだった。 夜学で教える日本人の男性先生も私に歌がうまいと言った。 1年ほど通ったが、工場に行って夜に出かけなければならないので、欠席する日が多かった。

母の代わりに弟たちを育てながら

母親はスジョン普通学校前に住む金持ちの家に乳母として行っていた。 それで弟たちは私が育てた。 私たちが住んでいた家と田畑はすべて母親が乳母として暮らしている金持ちの家のものだった。

9歳から13歳までは、七星洞(チルソンドン)にある日本人が経営する繰綿工場に勤めていた。 綿入れをする時、ほこりがとてもたくさん出た。 ある日は、機械に人がつっこんで頭が切れるのを見たが、それを見て怖くて工場に行きたくなくなった。 しかし、工場に行かなくては、生きる術がなかった。

15歳の時に、町内のチルソン国民学校で挺身隊訓練を受けたこともある。 男と女が別に並んで体操をし、列をまっすぐにして歩く訓練も受けた。 家に帰るときも並んで帰って来た。

1944年、私が満16歳の時、秋のこと。 その時、父は米倉に出向いて米を運ぶ雑役夫として働いていた。 私の同い年の友人にキム・ブンスンという子がいたが、その子の母はお酒を売る商売をしていた。 ある日、私がその家に遊びに行くと、その母が「靴一つまともに履けなくて、何だよ。 そこに行けば五万のものもあるんだよ。 ご飯もたくさん食べられるし、お前の家も豊かに暮らせるようになる」と話した。 当時、私の身なりはぼろぼろで、言葉が出なかった。

数日後、ブンスンと川辺に行って、魚を捕まえていたら、向こうの丘の上に老人と日本人男性が立っているのが見えた。 老人が指を差すと、男がこちら側に降りてきた。 年寄りはすぐ立ち去り、男が我々に手振りで行こうと言った。 私は怖くてブンスンをものともせず反対側に逃げ出した。

ところが、数日過ぎたある日の未明、ブンスンが我が家の窓を叩きながら「そっと出て来い」とささやいた。 私は忍び足でブンスンの後を追って行った。 母にも話さないまま、そのままブンスンについて家を出た。 家で着ていた黒いチマにボタンの付いた長いサムを着て、しかも引っ張っていた。 行ってみたら、川辺で見た日本人男性がいた。 彼は40歳に満たないように見えた。 国民服に戦闘帽をかぶっていた。 彼は服を手渡し、その中にワンピースと革靴があると言った。 さっと包んでみると、赤いワンピースと皮靴が見えた。 それを受けとって、子ども心にどれほど喜んだか分からない。 それでつい他のことも考えず、快くついて行くようになった。 私を含め娘が全部で5人いた。

その道で駅に行って汽車に乗り、慶州まで行った。 その時、私は生まれて初めて汽車に乗った。 慶州に行ってある旅館に入った。 旅館前の小川で手を洗っていると、山の斜面に紫色の花が一輪咲いていた。 生まれて初めて見る花なので何の花かと聞いたら、キキョウの花だとこたえた。。 そこで二夜を過ごしたが、さらに女2人を連れてきた。 それで女の人が全部で7人になった。 慶州から汽車で大邱を通り過ぎた。 走る汽車の割れたガラスの向こうに我が家が見えた。 その時になって、ようやく家のことを思い出し、お母さんに会いたくなった。 私はお母さんのところに行かなければならないと言いながら、泣いた。 服の包みを押し返しながら、「これはいらないから家に帰してくれ」と言って泣き続けた。 泣いていて疲れて眠りこけたが、 どのくらい行ったのか分からない。 幾日も過ぎたようだった。

雨のように打つ鞭が怖くて

平安道の安州という所で降りて、ある民家に入った。 母屋と下棟、蔵があり、部屋が4つある藁ぶきの家だった。 その家には老婆が留守番をしていた。 その老婆はいつもモンペと長い上着を着て頭にタオルをかぶっていた。 そこも食べるものがあまりなくて、ご飯はくれずに、ジャガイモとキビを茹でていた。あまりにもお腹が空いていたので、空腹を紛らわそうとリンゴを盗んで食べたりもした。

大邱から私たちを率いて行った日本人男性は、娘たちの中で誰かが少しでも間違いを犯せば、皆に罰を与えた。 一升瓶の瓶に水をいっぱいに入れて両手に持ち、棒を踏み立っている罰を立てたり、砧打ちの棒で手のひらと足の裏を叩いた。 水を持って来いと言う時、少しでも遅く持って行ったら殴られた。 よく殴られたので、殴られるのがどれほど怖かったか。私は殴られないように顔色を伺いながら行動した。

寒くなって地面が凍り、厳しい寒風が吹いた。 私たちは畑から大根を抜いて、かますに入れて持ってくる事をほとんど毎日した。 薄着で仕事をしようとしたら、どれほど寒くて手が冷えたか分からない。 私たちが寒いと言ったら、その男はまた殴った。 それで私たちは男に内緒で凍えた手を温めてぶるぶる震えたりした。

安州で後から来た女2人はどこかに連れて行かれ、最初の5人だけが残った。 そこで1ヶ月ほど過ごした後、再び汽車に乗って大連まで行った。 大連の旅館で一晩泊まった 翌朝、蒸しパンとスープをもらった。 お腹も空いていたし、初めて食べた料理だったので、おいしく食べたのを思い出す。 大連から船に乗って出発したが、一緒に行った船は11船だったと言う。 とても大きな船だった。 我々は最後尾の船に乗せられた。 船には日本海軍がとてもたくさん乗った。 その船に乗った女は私たちだけだった。

船で1945年、新暦の正月を迎えた。 上海で船が休んで行ったが、兵士たちは降りることもあったが、私たち女性たちは降りられなかった。 軍人の集結するデッキに上がって歌を歌えと言われた。 それで歌を歌うと、将校がもち米餅二つをくれた。 私はその餅をもらってきて、仲間たちと分けて食べた。 船がまた出発したが爆撃がひどくて行く途中休んでいった。

そして、ある夜に爆撃を受けた。 他の船は全部壊れ、私達の船も前方を爆撃されパニックになった。 外でも死ぬと騒いだ。 船がとても揺れて船酔いになった。 頭が割れそうに痛く、胃が痛くてたまらなかった。 吐きながら、這ってトイレに行ったが、ある軍人がどこかへ私を連れ込んだ。 私は振り切って、彼の腕を噛み逃げようとした。 しかし、殴りつけながら無理やり押し込められ、幼い私としてあまりにも力不足だった。 そう連れて行かれて、彼に強姦されてしまった。 誰なのかも分からなかった。 その時、私は生まれて初めて、男からそんな目にあったのだ。 しかし、最初はそんな目に遭っても何が何だか分からなかった。 あの男がこうしようと連れてきたんだなという気がしただけだった。

船が壊れて皆死んだという声も聞いた。 救命服を着て横になっていろと言った。 もう死ぬのだと思った。 むしろ死んだ方がましだと思った。 ところが、その船はうまく航海を続けた。 その事は、私だけがやられたのではなかった。 ブンスンや他の女性たちも、私と同じように軍人にやられたと話した。 その後、船の中で私たちは、常に軍人にそのようなやり方でやられなければならなかった。 私はいつも泣いて目が腫れていた。 その時は幼いせいか、怖くなってぶるぶる震えてばかりいた。 今思うと悔しくて胸が苦しいが、その時はそれを知らなかった。 恐ろしくて恐ろしくて軍人たちを直視することもできなかった。

ある日、海に溺れて死ぬために船の窓を開けて外を眺めた。 飛び降りて死にたい気持ちだった。 しかし、白水が荒く波打つのを見下ろすと、恐ろしくて身を投げることができなかった。


電気拷問で気を失って

台湾に到着した。 船から降りて歩こうとしたら、下半身が自分の体ではないように感じた。 股間に腺(出来物?)ができて血が凝り固まった。 すごく腫れ上がって足が縮こまることが出来なくて、よろめきながら歩いて行った。

大邱から私たちを連れて行った男が慰安所の主人だった。 私たちは彼を「オヤジ」と呼んだ。 女の中で私が一番幼かった。 ブンスンは私より1歳年上で、他の女性も18、19歳くらいだった。

部屋に入るように言われたが、入りたくないと言うと、主人が私の頭をつかんで、ある部屋へ連れて行った。 その部屋で電気拷問を受けた。 主人は酷く悪辣な奴だった。 彼は私の手首、足首に電話コードを巻きつけた。 そして、「コノヤロ」と電話の取っ手を振り回した。 私は目が光でチカチカしながらブルブルと震えた。 これ以上耐えられない状況になって、「言うとおりにする」と泣き叫び、両手で謝った。 そして、もう一度受話器を回した時、私は耐えられなくて気を失ってしまった。 目を覚ましたら水をかけたのか全身が濡れていた。

慰安所は日本式に建てられた2階建ての家だったが、部屋が20室もあった。 私たちが到着したら、すでに多くの女性がいた。 私たちより年を取った女性たちが10人くらい着物を着ていた。 日本人女性もいたが、その女性は主人の妻で、妾は朝鮮の女性だった。 主人は奥さんも妾もことあるごとに殴りつけた。 私たちは先に来た女たちから渡されたワンピースを着た。 主人は先に来た女性を「ネエサン」と呼ぶように言い、お姉さんたちの言うことをよく聞くように言った。 お姉さんたちの洗濯とご飯も私たちが順番に作ってあげた。 そこも食べるものがあまりなかった。 お茶漬けや白粥を主に食べた。

私は今も臆病だ。 その時はもっとだったが、主人に殴られるか心配で、いつも身をすくめていた。 軍人に殴られたことはないが、主人にはたくさん殴られた。 怖くて逃げる事は考えも出来なかった。 船に乗って広い海を渡り、四方天地がどこなのか分からないのに、どうして逃げようと思えただろうか。

慰安所の部屋はとても小さかった。 二人がやっと横になれるくらいの大きさだった。 扉には包装を張っておいた。 壁は板で、床は木版だが、何も敷いていない。 軍用毛布1枚を持ってどん底で過ごした。

ある日、慰安所に入ってきた軍人が私に「名前は何か」と聞いた。 それまで恐ろしさのあまり私は隅で首を横に振って身をすくめていた。 だから、その兵士は「君に名前をつけてあげる」と「トシコ」と呼んだ。 その時から私はそこで「トシコ」として通じた。

我々は主に特攻隊を相手にした。彼らは我々の事情とは露ほども大目に見てくれなかった。 軍人は軍服を着てきたが、陸軍か海軍か空軍かを区別することはできなかった。

1日平均4~5人の軍人を受けた。 軍人が入ってきたらすぐさまやって出て行った。 寝て行ったことはほとんどなかった。 月経の時は古着を洗って使った。 生理でも軍人を受けなければならなかった。 お金には目もくれなかった。 空襲が激しく、1日に何度も避難しなければならない時もあった。 爆撃があれば、山にも隠れ、穴の中にも隠れた。 そうするうちに、しばらく静かになると、畑も田もどこにでも囲っておいて軍人を受けたりした。 風が吹いて、囲ったものがばたばたと倒れても、軍人たちはものともせず、事をすべて終えなければならない。 犬、豚にも劣った。 外に出て診断を受けた覚えはない。 サックというものも知らなかった。

ある日、地下の防空壕に降りていったが、爆撃を受けて家が沈んだ。 防空壕の上に土が崩れ落ちた。 そこから抜け出そうと必死に土を掘った。 しばらく掘ったら小さな穴が出てきた。 とても嬉しくて「ああ、外が見える」と見ていた時、何かの煙を受けた。 すると口から血が流れ出た。 そして気が動転した。

その爆撃で主人の妾と慰安婦だった背が高くて顔が突き出た朴氏が死んだ。 家が崩れたので山の下の防空壕に避難した。 そこでもまた軍人を受けた。

そうするうちに、ふらふらと家を建てた。 家を建て直すのに、そんなに時間はかからなかった。 そして、ずっと軍人を受けた。 そうするうちに性病にかかった。 主人は赤みがかったきつい606号の注射を打ってくれた。 すっかり治っていないのに、男を受けなければならないから、よく治らなかった。 そのため、注射を続けながら軍人たちを受けた。 近くに病院などもなく、保健所もなかった。

爆撃で防空壕に行く以外は監視が厳重で出られなかった。 慰安所の外に出ると、殴るとも言い、殺すとも言われて、怖くて出ることもできなかった。 特攻隊はみんな若かった。 年はたいてい19歳か20歳だった。


主に特攻隊を相手して

ある夜、ある軍人が来た。 彼は自分が今日行けば死ぬと言った。 私は「特攻隊は何をしてるのですか」と尋ねた。 飛行機1機に2人ずつ乗って行って、敵の船や基地を肉弾で攻撃すると説明してくれた。 そうして自分の写真とかけた石鹸とタオルなど洗面道具を私にくれるのだった。 彼は以前2、3度、私に来たことがあるが、そのとき私から性病が移ったと言った。 その瓶を私からの贈り物として持って行くと言った。 そう言いながら、歌一つを教えてくれた。

勇ましく離陸する。 新竹を離れて
金波、銀波の雲を越えて
一緒に見送ってくれる人はなし
泣いてくれるのはトシコだけ(*4)

それまでは、私はそこが台湾のどこかだとは知っていたが、確実にどこなのかは分からなかった。 しかし、彼がその歌を教えてくれて、そこが台湾の「新竹」だと推測するようになった。

避難に行けばサトウキビを盗んで食べた。 あまりにもお腹が空いていたから。 それがばれると、また殴られた。 そこでは朝鮮語を使うことができなかった。 朝鮮語を使ったら主人に殴られた。 ある日、何も言わなかった先に来た女性が「私も朝鮮の女だ」と言って、朝鮮語で戦争が終わったと言ってくれた。 私たちは抱き合ってしばらく泣いた。 そのお姉さんは「何とかして必ず生きて朝鮮に帰れ」と手をぎゅっと握ってくれた。 外でも人々が叫びながら歩き回った。 そして戦争が終わったと知った。 気をしっかり持ってみると、主人と先に来た女性たちはどこに行ったのか、見当たらなかった。

埠頭にある倉庫のような収容所に行った。 おむすびをくれたが、ゾウムシが真っ黒に入っていた。 収容所にいながら船を待った。 私はまた誰かが来て引き留めるか心配で毛布にくるまって隅で震えていた。 その時も、いつも泣いて、目が腫れて、ただでさえ小さい目がくっついていた。


私の青春を返してくれ

船が釜山に着いた時は麦が青く上がってくる頃だった。 釜山に降りたら、私たちにDDTをかけた。 そしてお金300ウォンをくれた。 その時帰国した人はブンスンと太った女、もう一人、私、こうしてみんな4人だったが、釜山で別れた。 汽車に乗って大邱へ行った。 汽車の中でも誰かにまた捕まるか心配で、目立たないように体をうずめて隅に隠れ、ずっと泣きながら行った。 私の家は潰れた藁葺の家のままだった。 家に帰ると、母は「お前は人間か、幽霊か」と失神した。

私は結婚しようとは思わなかった。 何の良心で嫁ぐのか、性病のために最近までかなり苦労した。 家族たちは、私がどこに行ってどのような目にあったのか知らなかった。 父は娘が一人いるのに、嫁にも行けないと嘆いた。 母親、父親は亡くなるまで一人娘を手放すことができず、目をつぶっていると悲しんだ。

大邱郷村洞(テグ・ヒャンチョンドン)のおでん屋は、居酒屋の従業員として長くいた。 蔚山の海水浴場で3年ほど商売をしたこともある。 また屋台もやってみた。 それから数年前からは保険販売員として働いていたが、最近は年を取ったのでやめた。

両親は亡くなり、事実を知らない弟たちは、年取った姉が一人暮らしをすることを嘆いた。 周りからも一人暮らしについて多くの噂が流れた。 面倒くさいし、私も女に生まれたら、紙やすりで一回も使わずに死ぬかと思うと、寂しい思いがした。 それで私が還暦を迎えた1989年1月に75歳のお祖父さんと結婚した。 男が嫌いでわざと年取った老人を選んだのだった。 しかし、妻への憎しみと虐めが酷すぎて、それも失敗してしまった。 今年の2月に離婚して、今は大邱で一人暮らしをしている。 敷金なしに10ヵ月に90万ウォンずつを支払う一室で暮らしている。 2坪半ほどの部屋に台所がついている。 現在、生計は弟たちが毎月少しずつ与えてくれて、それで暮らしている。

届け出て、話を全部したら、今は気が楽になった。 これから生きれば、どれほど生きられるだろうか。挺身隊問題対策協議会がこのようにして私たちを手伝ってくれて、どんなにありがたいことか。

最近、カチューシャという曲に歌詞を入れ替えてこうつぶやく。 「悔しくてたまらない。 わが青春を返してくれ。 謝罪して賠償せよ。 勝手に引きずって勝手に踏みにじった日本は謝罪して賠償せよ。 お母さん、お父さん聞こえますか。 この娘たちの泣き声。 今は私たち大韓の兄弟姉妹が恨みを晴らしてくれます。」

先日、お母さんやお父さんの墓地に行って、こう祈った。
「泣いても呼んでも来ない私の母、今は私たちの大韓の兄弟姉妹が恨みを晴らしてくれます」 「お母さん、お父さん、目を閉じて、極楽に行ってください。」

(1) 伊藤孝司『破られた沈黙 アジアの「従軍慰安婦」たち 写真記録』風媒社 1993
(2) 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編集『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』明石書店 1993
(3) 高柳美知子、 岩本正光 『戦争と性 韓国で「慰安婦」と向きあう』 かもがわ出版 2007
(4) かんこうりりくよ新竹はなれて
きんぱ ぎんぱのくものりこえて
つれだって見おくる人さえなけりゃ
ないてくれるは年子ひとり